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◆三斗山(さんとやま



※※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/20,000地形図「各務原」(明治26.12)を使用したものである

所在:各務原市川島松原町(まつばらまち)
地形図:岐阜/岐阜
形態:川の中洲に家屋が集まる
離村の背景:河川の改修
標高:約40m
訪問:2015年11月

 

 大字松原町の北部、木曽(きそ)川沿いにある。
 川島村は木曽川の大小様々な中洲から構成されており、当地もそれらのうちの一つ「三斗山島」であった。木曽川の河川改修工事のため現在は全域が河川の中に当たり、その形跡はない。
 資料『三斗山風土記』によると、往時は30戸約180人。氏神は神明社。東西に1社ずつあり、東のものは「野田のお宮」、西のものは「岩田の宮」と呼ばれていた。このほか3箇所に川除神社を祀る。主な生業は養蚕。島内のほか笠田(かさだ)まで桑を摘みに通っていたため、全戸で舟を所有していたという。ほか上流で丸石を採取して石問屋に売るのも大きな収入源であった。島内に多く見られた竹藪で竹の皮を拾い、これを売ることも行われていた。自給用の畑作も行われたが、島内の農地は僅かで西のほうの家では島内に農地を持てず笠田に畑を持っていた。堤防がなかったため水害には弱く、浸水は川島の中で最も早かったという。

 川島大橋の南詰、川島会館の敷地内には「三斗山島の跡」の碑(写真2。昭和50年5月、三斗山一同による)や河川改修の説明板が置かれており、往時を窺う手がかりとなっている。
 以下は碑文。


旧三斗山島はこの地点を東端とし、ここから下流約六百米の間にあった木曽川河川敷の細長い中州で、面積約五万五千平方米、その島に三十戸が集落を作ってより添って住んでいた。たまたま大正十二年から内務省の木曽川新河道形成工事が始まって全島が河床となり、ここに幾百年の歴史を閉じ父祖の住み着いたこの地から全戸をあげて移転し現在の場所に新しい生活をはじめた。時に大正十四年四月。爾来ここに五十星霜、当時を偲ぶよすがに旧島の概ね東端のこの地に標を建て、当時の戸主名を刻み、永く後世に伝えんとするものである。


 なお戸主名として、野田氏23名、稲川氏4名、岩田氏3名が記されている。

 


写真1 集落跡付近(川の中)

写真2 碑

 

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