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◆下佐谷(しもさだに)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「舩津」(昭和29.5)を使用したものである

所在:高山市上宝町下佐谷(かみたからちょう―)
地形図:長倉/船津
形態:山中に家屋が集まる
標高:約850m
訪問:20011年6月

 

 高原(たかはら)川支流、下佐(しもさ)谷左岸にある
 最近の地図では集落の真下に道路(実線)が描かれているが実際には存在せず、現状から鑑みて里道があったかすら疑わしい。古い地図ではウジガ谷との合流部付近から道がつながっており、こちらは本来の道なのだろう(なお現在の林道は「林用軌道」となっており、細越付近からかなり上流にまで延びている)。
 崖が途切れた適当な場所から斜面を登ると、この本来の道に合流し集落に到達。規模はあまり大きくないが、段々になった農地跡や屋敷跡を確認。遺物はほとんど残っていない。古い地図で神社が記載されている場所付近は、やや平坦になっているものの荒地になっている(写真5)。
 地元の方の話では、千葉の下総の武士が流れてきたという伝承があるという(※)
 明治8年8戸51人、大正元年10戸76人、昭和元年10戸70人、同15年8戸56人(村史)。
 「角川」によると、ワサビ・ワラビ粉・木材加工品(籠・杓子・檜箸)などの林産物を多く産出したという。神社に白山社・三社宮があった。昭和初年に森林鉄道が敷設されてからは、良材を産出した。昭和20年代より過疎化が始まる。また大字下佐谷は、近世の吉城郡高原(たかはら)郷の下佐谷村。明治8年上宝村の大字となる。

※ 「角川」で引用されている「後風土記」によると、下総の浪人が当地に住んだことから下総谷と称し、のち下佐谷となったという

 


写真1 道(右)と屋敷跡?の石垣

写真2 屋敷跡?の石垣

写真3 屋敷跡?

写真4 石の鉢

写真5 「神社」付近の平地

 

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