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◆大持坂(だいもちざか



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「中野」(昭和39.5)を使用したものである

在:山ノ内町夜間瀬(よませ)字大持坂
地形図:夜間瀬
/中野
形態:川沿いの斜面に家屋が集まる

標高:約730m
訪問:2015年11

 

 大字夜間瀬の北部、樽川右岸支流沿いにある。
 
町誌には、「終戦後過疎化から廃村になった大持坂部落も現われている」「裏落合のさらに上流に『大持坂』があったが、廃村してしまって今は草薮の中に大きな民屋が所々に崩れ落ちている」といった記述がある。小字名としても記載。
 八丁原集落より尾根を越え集落に向かって下っていくと、道沿いには「大持坂五家門生誕祖蹟」の碑(写真1)がある。集落内では2、3箇所の屋敷跡を確認。円筒状の遺構が複数残されているが、サイロだろうか。神社は分からず。ほぼ全域が植林地。
 以下は碑の「大持坂の由来」(■は撮影の加減で判読できず)。

大持坂は今から約七百年前、嘉元三年(一三〇五)京都東福寺、本覚国師虎関師錬禅師が巡錫のみぎり、■温泉寺・上条善応寺と共に二年の歳月をかけて、真言宗五輪峰正明寺(■〔乗?〕■〔廻?〕)をこの地に移転し創建した 禅師の弟子で、お供の者は吉田家で、この事業の別当■(臘?)を勤め同じく小嶋、小越氏は■■であろうか、この地鳥出の郷に鳥出山正明寺の落慶を迎えた。以来天正十年(一五八二)廃寺移転となる迄の二百七十余年間寺の法灯を護り、また徳竹・佐藤氏も加わり、八丁原の農耕、林野の経営に勤め、生成発展、人物輩出の歴史の中、昭和四十八年の亘る故郷終焉の地である。

 


写真1 碑


写真2 屋敷跡の石垣

写真3 屋敷跡の一部

写真4 屋敷跡。右は浴槽

写真5 農地跡

写真6 何かの碑

写真7 遺構

 

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