◆米子(よなこ)鉱山
※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「須坂」(昭和22.12)を使用したものである
所在:須坂市米子
地形図:四阿山/須坂
形態:山中に家屋や施設が多数集まる
標高:約1,450m
訪問:2013年11月
大字米子の南東部、米子川の上流部にある。
現地にある説明板の絵図(写真5)より、鉱山事務所が置かれていた北側・精錬場が置かれていた南側に大まかに分かれていることが分かる。北側には事務所のほか分教場・鉱山事務所・診療所・映画館・社宅など、南側には索道起点・鋳物工場・木工所・鉄工所・製材所・売店・従業員寮・社宅などがあったよう(昭和18年頃)。
現在は米子不動尊や米子大瀑布(日本の滝百選)を含めた観光地として遊歩道になっており、往時の面影は見られないほど整備されている。まず訪れたのは南側で、移転されたと思われる山神社(写真7)や背後の山林にいくらかの遺構が見られた。最近の地図でも神社の記号が記されているが、山神社とは位置は異なり詳細は不明。付近は山林になっており、それらしいものも見られなかった。続いて北側には東屋と「米子鉱山跡」の碑(写真18)がある。後述の「大黒平」にも人の暮らしがあったとのことが、後になって存在を知ったためこの時は未訪問。
以下は説明板の解説。
この地で硫黄の採掘が始められたのは、江戸時代前期からとも言われますが、詳しいことはわかっていません。
享保年間(1716〜1735)頃、米子村の竹前権兵衛は、幕府に良質な硫黄を売り、その資金を用いて現新潟県紫雲寺町の干拓事業を行い、同町に米子新田を開いたと伝えられています。このことから現在、須坂市と紫雲寺町は姉妹都市の提携を結んでいます。
明治になり、須坂硫黄会社、信濃硫黄株式会社などが採掘を行い、昭和9年には中外鉱業株式会社に引き継がれ、昭和35年の閉山まで、硫黄を中心に蝋石・ダイアスポアーなどを産出しました。
米子鉱山から須坂駅まで全長14kmを超える索道(リフト)が架けられ、硫黄が搬出されました。硫黄の需要が増大した第2次世界大戦当時には、この地に生活する鉱山従業員とその家族は1500人を数え、診療所や共同浴場、学校などがそろう鉱山の集落へはこの索道を使って須坂から多くの物資が運ばれていました。
なお『米子硫黄鉱山史』によると、学校は仁礼(にれい)小学校の米子分教場で、昭和33年2月閉校。山神社は、かつては集落よりも上流の高台、つづら折りの坂を登り切った平坦地に鎮座していた。またさらに上流の「大黒平」と呼ばれる場所には、米子鉱業所時代の精錬所や社宅・合宿所・売店等の建物があったという。
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