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◆石合(いしあい)



※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「南部」(明治45.5)を使用したものである

在:南部町福士(ふくし)
地形図:篠井山/南部
形態:川の合流部に家屋が集まる
標高:約230m
訪問:2023年4月

 

 大字福士の中部、石合川(富士(ふじ)川二次支流)と長瀞川との合流部にある。
 1960年代・70年代の航空写真ではいくらかの建物が確認できるものの、明瞭な民家のようなものは見られない。また2012年のものでは大型の施設が写っており、手持ちの道路地図にも工場とその名称、そして「幕神社」が記されている。
 現在は高速道路(中部横断自動車道)の建設に伴ってか工場も退去し、長瀞川沿いも大規模に造成。神社も見られない。森村(もりむら)橋・中島橋付近の石塔(写真3)や堂宇(写真4)、「森村翁顕彰碑」(写真5)と何かの石碑(日没で内容は確認できず)(写真6)が往時を僅かに偲ばせるのみ。
 なお森村翁とは、6代目森村市左衛門(もりむら・いちざえもん)という人物で、幕末生まれの男爵・実業家。明治27年石合に山林を取得し造林事業を開始した。大正6年「森村同族株式会社」(後の森村産業株式会社)を設立。戦後の復興や地元経済の発展に寄与した。氏の曾孫の代に造林地は県に譲渡され、宅地等の平坦地は町に寄贈している(碑より要約)。
 なお森村橋付近から200mほど下流の石合川左岸には、1970年代の航空写真では複数の建造物が確認できるが、現在は盛土され痕跡は皆無(写真10)。

 町誌によると、昭和3年16戸114人。「昭和60年までは石合にも集落があり…」という記述が見られ、無住となったのはこの頃であるよう。神社は(まく)神社で、祭神は火酢芹命(火須勢理命)。徳間の八幡神社の摂社で、天文20(1551)年に勧請。この地の奥に幕のような大岩があり、その中心に神が出現してお告げがあったため、氏子は幕大明神という御神号を奉って奉戴したという。
 石造物として、丸石の形状をした道祖神(写真11?)、長瀞川沿いに文化5(1808)年造立の文字碑の庚申塔、元治2(1865)年の道供養塔(写真3か)、文化5(1808)年造立、自然石の万霊塔がある。
   

 


写真1 案内標識。石合とある

写真2 丁字路。左は「機材庫」とある。右は中島橋、奥上方は高速道路の長瀞川橋

写真3 石塔。「道供養」と見える

写真4 堂宇(扁額には崩し字で名称が記されている。「光明堂」か)

写真5 森村翁顕彰碑

写真6 何かの石碑

写真7 建物跡?

写真8 工場跡

写真9 農地跡

写真10 建物群跡

写真11 写真10付近の石造物

 

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