◆大嵐(おおあらし)
※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「鰍沢」(昭和7.11)を使用したものである
所在:南アルプス市大嵐 地形図:小笠原/鰍沢
形態:山中に家屋が集まる 標高:約710m(地名表記付近)
訪問:2023年4月
御勅使(みだい)川の左岸斜面で、集落は大字大嵐の南部にある。
現在も旧集落の農地を利用した圃場「山の果樹園」(写真1)があり、通いの農業が営まれている。
ほか集落内には神社・寺院跡・墓地がある。神社(写真4)は、堂内の寄附者名簿によると大嵐諏訪神社。平成22年に改築したことが窺える。寺院(善応寺)については地形図に記号が見られるものの、観音堂や鐘楼を残し現在は廃寺となっている。境内のビャクシンの木は、県指定の文化財(昭和42年指定)(写真9)。堂宇脇には多数の石造物と柵に囲われた宝篋印塔があるが、このうち宝篋印塔は県指定の文化財(昭和53年指定)(写真11)。さらにその隣に石垣で一段高くなった広い敷地が見られるが、庫裏の跡だろうか(写真14)。
墓地は寺院跡の後方にあり、志村・金川・金丸・堀内といった姓が見られた。これは先の諏訪神社寄附者名簿にも見られ、土着の人々の姓であるよう。なお町誌巻末の「賛助会員名簿」の大嵐の項でも、金川・井上・金丸・志村・堀内の各氏が名を連ねている。
以下は寺院境内にある「善應寺観音堂記」より。
城守山善応寺は弘安年中(西暦一二七八〜一二八八年)本尊に釈迦如来を祀り笹見浦政綱公を開基とし大休佛源禅師を迎えて開山したと伝えられている大休佛源禅師は中国より渡来した高僧で正応二年(一二八九)十一月晦日歿している
境内にある観音堂は往時大笹池の西都沢で発見された千手観世音菩薩を祀るため建立されたと伝えられている
南北朝の観応の時(一三五一年)高播磨守師冬は城主逸見孫六入道とともに栖沢城によつて諏訪直頼軍と戦いこれに敗れ滅亡したがこの兵乱により善応寺も被害を受けた弘治三年(一五五七年)に僧比丘一兆叟宗 専棟梁広瀬越前守本願主沙弥道喜等によつて本尊観音宮殿が建立された寛文八年(一六六八年)鐘堂の建立及び梵鐘の鋳造 天和三年(一六八三年)観音堂前に石灯籠一対を建立 元禄十五年(一七〇二年)法泉寺天圭禅師梵鐘に銘文を記す 正徳三年(一七一三年)堂宇観音堂再建の勧請を始め享保六年(一七二一年)堂塔を完成した 善応寺は建立後七百年の永い年月を経て今日に至っているが時代の変遷はこの由緒ある寺にも及び昭和三十年老朽化の進む本堂が取り壊され現在は観音堂が当時の名残を留めている 境内には往時を偲ばせるビャクシンや宝篋印塔が残されている
平成の時代を迎えふるさと創生を進めるにあたり歴史の狭間に埋もれることを憂い残された資料を基にその史実を尋ねこれを記し永く後世に伝えるためこの碑を建立する
平成二年四月一日
また緩傾斜地の南東端には城址の記号があるが、これは須沢(すざわ)城の跡を示すもの。記号の場所は小さな塚のようになっており小祠や宝篋印塔・五輪塔が置かれている(写真19)。
町誌によると、交通が困難であることや高地で狭隘であったことなどにより、昭和期に寺と観音堂と耕地を残して御勅使川周辺の耕地に分散移住したとのこと。文化3(1806)年12戸49人(「甲斐国志」)、明治3年13戸63人(戸籍帳)。
善応寺は、山号城守山、宗派は臨済宗。府中法泉寺末社で、本尊は阿弥陀如来。
地名の由来について、中部の山岳地帯では山の崩壊地を「あらし」と呼ぶことに言及している。当地は御勅使川が侵蝕した段丘で、切り立った露岩を呈しているとのこと。
また「角川」によると、大字大嵐は中世より見られる「大嵐之郷」で、近世以降は大嵐村(巨摩郡のうち)。明治8年源村(のち白根町)の大字となる。明治初期の農産物として、麦・粟・稗・大豆・小豆・藍葉・ゴマ・エゴマ・タバコが挙げられている。また明治末期から第二次世界大戦前までは養蚕が主で、昭和30年代後半からはスモモなど果樹栽培が盛んになった。
交通不便なため大正末期から民家の移動が始まり、第二次世界大戦後それが急速に進んで、有野や塩前に移ったという。寺を残して人家は1軒もなくなり、かつての桑畑もスモモ畑に変わった。
なお大字大嵐の戸口が平成27年時点で1戸3人であるが、塩沢地区の西端、大嵐沢右岸の1戸が大字の領域に含まれており、この世帯がデータに反映されているものと思われる。
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