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◆山中(やまなか)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「敦賀」(昭和26.9)を使用したものである

所在:敦賀市山中
地形図:駄口/敦賀
形態:谷沿いに家屋が集まる
標高:約350m
訪問:2012年11月・2019年11月

 

 市の南部、笙(しょう)の川支流の五位(ごい)川上流部にある。
 以下は「角川」より集落に関する記述を要約。

大字としての山中は、近世の敦賀郡山中村。明治22年愛発(あらち)村(のち敦賀市)の大字となる
当地は北陸道(西近江路)の越前・近江国境に近く、宿駅のひとつであった。盛時には人馬・荷物の往来で繁栄。明治17年鉄道(北陸線)の開通後は往来が減り、離村者が増加。宿場としての機能は絶えた
氏神は日吉神社、寺院は願因寺(浄土真宗。明治21年無住)と光伝寺(浄土宗。明治維新時廃止)
大正9年13戸50人、昭和10年7戸31人、同30年13戸50人
後年に残った3戸は水田を耕作し自給の生活。昭和25-26年福井・武生方面から開拓農家8戸が入植したが、資金不足や営農の不慣れから次々に離農し、昭和46年からは元からの住民1戸となった。同50年後半に酪農家2戸が加わり3戸となる

 現地には廃屋が1軒建っており、これは国道からも確認することができる。付近には「親鸞聖人有乳山舊跡」の碑(写真3)があり、これは地形図にも記されている。ここから枝道に入ると旧道と思われる道筋(写真4)があり、この両側には屋敷跡が並んでいる。小さな川の対岸は墓地となっているが、地図にある神社は既にない。墓地の入口の石柱にも「親鸞聖人有乳山舊跡」および「親鸞聖人御詠歌」と刻まれており、親鸞にゆかりのある地であることが分かる。
 地図ではここから400mほど下流に数棟の家屋と大型の建物が集まって記載されているが、こちらは未確認。先述の酪農家に関係すると思われる。
 ほか地内には国境(くにざかい)スキー場の一部の施設や国交省スノーベースがあるが、本来の集落の位置とは無関係だろう。

 2019年再訪。先述の「数棟の家屋と大型の建物」の場所(写真11-13)や、これまで見過ごしていた国道沿いの堂宇(写真14)のほか、前回未確認の墓や集落の神社(写真18・19)を新たに確認した。大型の建物は最新の地形図では削除されているが、その跡地を見る限り畜舎であったよう。残る建物は家屋。堂宇には地蔵が安置されており、由緒は以下のとおり(立て札より。は必要に応じ、本文でのルビを【 】で記した)。


 祭お地蔵さん
 小笠原貞宗【さだむね】 正五位源忠統【ただむね】 妻ミヨ

 このお地蔵さんは、足利尊氏の命を受けて金ヶ崎城の戦いで亡くなった小笠原貞宗です。
  (信州松本城の前身を築きました)
 この戦いで多くの家来を亡くし、責任を感じ「珠【たま】の木」「この辺りの地」で残った家来と自刀【じとう】しました。死後、足利尊氏によってこのお地蔵さんが建てられました。
 貞宗の命で一人だけ生き残った家来の「貞吉【さだきち】」によって「珠の木」が記念樹として植えられ、今日にいたっています。
 前に流れる川は、貞宗の位「五位の川」と名付けられました。
 妻ミヨは、敦賀追分出身で、この地に来られた親鸞聖人に任【つか】えて、貞宗にみそめられて結婚し、一人の男の子、松本城主、長時【ながとき】をもうけました。生前から兄によって出世頭として、この地でお地蔵さんとして建ててもらいました。
 峠を往来する私達をあたたかく見守ってくれています。

 平成八年正月 松本家

 


写真1 看板(以下2012年撮影)

写真2 廃屋

写真3 碑

写真4 旧道?

写真5 屋敷跡入口

写真6 屋敷跡

写真7 屋敷跡

写真8 屋敷跡の登り口

写真9 石柱

写真10 墓地

写真11 家屋(以下2019年撮影)

写真12 倉庫と家屋

写真13 畜舎跡(手前)と何かの建物(奥)

写真14 地蔵堂

写真15 農地跡?

写真16 五位川

写真17 墓地(伊原氏)

写真18 神社。参道と鳥居

写真19 同。社殿

写真20 屋敷跡

写真21 墓

写真22 墓地(写真10)の櫓

写真23 五位川と石垣

写真24 農地跡

 

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