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◆大内(おおうち)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「大聖寺」(昭和35.2)を使用したものである

所在:加賀市山中温泉大内町(やまなかおんせんおおうちまち)
地形図:越前中川/大聖寺
形態:谷沿いに家屋が集まる
標高:約250m
訪問:2011年8月

 

 町の西南部にある。大内谷川上流で、大内峠のすぐそば。
 日没・悪天候のため詳しい探索はしなかったが、離村を惜しんだ碑(写真)や東屋がある。付近の平坦地は屋敷跡だろう。
 以下は町史の記述。

〔現代編〕…大内町は昭和58年を最後に、全戸が山中漆器団地・加賀市別所(べっしょ)漆器団地・加賀市河南町(かわみなみまち)へ移住し、無住村となった。神社は現在国道の脇に鎮座し、1年に1度、離村した氏子(大内会)が集まる。

〔完結編〕…昔から林業と製炭で生計を立ててきたが、明治の末期から木地挽業が起こった。昭和10年頃には木地挽工場が7軒もあり、山中漆器の木製素地の一大産地であった。昭和20年代に入り、原木不足と昭和30年代に樹脂成型による素地作りが導入され、木地挽きから成型業へと転業する人が増えた。昭和37年の大火、山中漆器団地の造成に伴う流通の変化などにより移住する者が増えた。それぞれの移住先で、木地挽業や成型業を営んでいる。

 なお昭和10年25戸、同35年23戸、同40年18戸、同45年13戸、同50年5戸、同55年2戸。同60年以降平成4年の調査まで0戸。神社は白山神社。
 以下は学校の変遷。

 明治7  片谷小学校の大内巡回授業所を設置
 明治8  我谷日置小学校の大内分場となる
 明治15  富士獄(※)小学校と称し、巡回授業所として創立
 明治19  我谷小学校大内分教場と称す
 明治20  大内簡易小学校を設置
 明治25  大内尋常小学校と改称
 明治30  我谷尋常小学校大内分教場となる

 大正3

 我谷小学校より分離し、大内尋常小学校となる
 昭和16  大内国民学校と改称
 昭和22  大内小学校と改称。大内中学校併設(25年山中中学校に統合)
 昭和47  閉校(HEYANEKO氏調べ)

※ 原文ママ。「富士嶽」か。付近の富士写(ふじしゃ)ヶ岳に由来?

 なお「大内町」は近世の江沼郡大内村。明治22年西谷村の大字となり、昭和30年山中町の町名となる。明治22年23戸149人、大正9年31戸182人、昭和50年5戸21人(角川)。

 


写真 碑

 

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