◆釜谷(かまだに/カマダン)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「白峯」(昭和32.7)を使用したものである
所在:白山市釜谷
地形図:白峰/白峰
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約370m(水面は約460m)
訪問:2011年8月
村の西部、手取(てどり)川左岸にある。手取川ダムにより水没した集落。
現在、移転された釜谷神社(写真3)が国道沿いにあるほかは、集落を偲ぶものはない。
以下は村史より集落に関する記述を抜萃・要約。
明治12年27戸、同25年31戸、昭和20年23戸。以後ほぼこの戸数を維持するも、昭和50年1月手取川ダム建設により全戸移転完了。昭和49年5月11日、閉村式を釜谷道場で挙行。移転先は鶴来町【現・白山市】・野々市町が多い
明治31年大火があり、5、6戸が北海道へ移住
昭和20年代まで水田・常畑・焼畑での農業やボッカ・養蚕・製炭等が主な生業。昭和30年以降は会社員・公務員・土木関係など
畑作物はアワ・ヒエ・が中心。麻はほとんどの家で栽培し、自家製の布に織り上げることが多かった
養蚕は明治初期既に行われていた。明治・大正を通して約半数の家が従事。昭和49年まで1戸が続けていた
製炭は近世末期頃から他村の人が従事していたが、釜谷の住民が始めたのは明治末から大正初め頃より。昭和5、6年頃が最盛期で、昭和30年代以降急速に衰退
ボッカは副業で、炭・へぎ板などの林産物を山から降ろし、味噌・醤油・米などを炭焼き小屋や木挽き小屋へ運搬した。7月頃から11月まで、農作業の合間を縫って従事。大正時代まで
尾口村の特産として古くは石灰があり、これは瀬戸(せと)と釜谷で生産。瀬戸では大正時代まで、釜谷では昭和35年頃まで生産された。
シナの木の皮で作られたハバキ(脚絆)が戦前まで盛んに生産された。冬の仕事。明治時代が最盛期。
以下は昭和48年の各戸の様子。
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姓 |
屋号 |
備考 |
1 |
杉田 |
イッチョモ |
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2 |
〃 |
イチロイモ |
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3 |
秋田 |
サブロベ |
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4 |
山口 |
ヘイ |
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5 |
徳田 |
ロクベ |
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6 |
砂原 |
マサオ |
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7 |
坂本 |
タヨモ |
釜谷道場主 |
8 |
谷内 |
ショウキチ |
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9 |
〃 |
― |
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10 |
田中 |
スケザイモ |
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11 |
大矢 |
オヤ |
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12 |
坂本 |
タサ |
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13 |
杉本 |
チョイモ |
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14 |
船渡 |
ハチ |
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15 |
山本 |
ジンスケ |
雑貨商 |
16 |
砂原 |
サン |
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17 |
山内 |
ジュウザブロ |
酒類販売 |
18 |
舟渡 |
セイヨモ |
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19 |
坂元 |
ゼンタロ |
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20 |
舟渡 |
カメ |
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21 |
山口 |
オトキチ |
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また集落には。深瀬小学校釜谷分校があったが、閉校時期は不明。創立は明治18年4月か(当時深瀬小学校釜谷分教場)。
なお大字釜谷は、近世の釜谷村。明治22尾口村の大字となる。明治22年32戸(角川)。
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