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◆奥池(おくいけ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「鶴來」(昭和34.10)を使用したものである

所在:白山市河内町奥池(かわちまちおくいけ)
地形図:鶴来/口直海
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:豪雪
標高:約480m(口池は約180m)
訪問:2011年8月

 

 村の東部、直海谷(のうみだに)川上流にある。
 広義の奥池は下流(標高約180m)左岸にある「口池」を含むが、ここでは特に断りがない限り上流部にある狭義のものを指す。
 以下は村史の記述を抜萃・要約したもの。

 起源は平家の落武者といわれる。まず鳥越村【現・白山市】瀬木野(せぎの)に住み着いたが、痩せ地であったため現在地付近(「うまやのつぼ」と呼ばれる場所(※1))へ移住、「奥荒屋村」と称する。その後少し上流の「したぐら(したむら)」と呼ばれる場所(※2)へ移住し、後の奥池に落ち着いた
 冬は口池に居住、4月より10月まで奥池で生活。他の出作は冬季に居住する場所が母村であるのに対し、当集落は出作先が本拠地であった
 主な収入源はぜんまい・木炭など。4月半ば、奥池に戻るとまずぜんまいを取る。良質のため金沢や鶴来などで盛んに売れ、たいていの家はこの収入で一年分の米が買えた。その後男は製炭、女は畑の準備を始める。炭焼きや種蒔きが始まる頃、養蚕も開始
 ウサギ・タヌキなどの獣や山鳥がよく獲れ、住民が食べるほか商人が買いに来て収入にもなった。川魚を獲ることは忌んでいた
 昭和38年の豪雪以後、奥池を離れ口池に常住する世帯が現れた。集落としては奥池を名乗っている
 学校は久保小学校奥池分校(※3)
 神社は粟島神社。昭和21年粟島社から改称。昭和38年の豪雪以後も祭神を残し祭りだけ奥池に行っていたが、昭和54年手取(てどり)川第三ダム竣工に伴い、北陸電力の協力により口池に神社が新築された
 戸数の変遷は大正2年9戸、昭和38年(豪雪時)6戸。多いときで20軒以上があった

※1 直海谷川左岸、奥池の南西にある等高線の緩くなった部分と思われる
※2 直海谷川右岸、奥
池から少し下流の川に近い場所か
※3 「角川」によると、大正4年白山小学校奥池夏季授業所として開設。昭和25年久保小学校奥池分校と改称。また
HEYANEKO氏の調査によると閉校は昭和48年

 以下はの各戸の様子(移住後の口池。昭和50年代か)。

  屋号
1 池田 伊予門(いよもん)
2 田村 喜与門(きよもん)
3 吉田 太郎兵(たろべ)
4 松井 宗左エ門(そうざえもん)
5 中田 中田
6 山口 与三エ門(よそえもん)
7 立川 たん左エ門(たんざえもん)
8 祐尾 祐尾

 現在は1棟の小屋(「自然環境を守る会監視管理所」とある。写真1)が残るのみ。村史の地図にある「青少年山の家」も跡形もない。神社の跡と思われる場所には朽ちかけた廃材が積み重なる(写真3)。

 


写真1 小屋

写真2 平地

写真3 神社跡にて

写真4 内尾‐奥池間の道祖神

 

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