◆上田(うえだ)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「下梨」(昭和32.8)を使用したものである
所在:南砺市大鋸屋(おおがや)
地形図:下梨/下梨
異表記:二ッ屋(旧称)
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約300m
訪問:2011年6月
町の南部、二ッ屋川上流部にある。
現在家屋はまったく残っておらず、中心部に碑や石仏がまとめられている。碑には昭和20年頃の地図があり、これによると中谷7・江田4・川端4・大岩3・北川3・山口3・山本3・稲場(※1)2・橋本2・新谷・高嶋・東・吉田各1の35軒。碑から少し下ると橋があり、対岸で屋敷跡を確認。神社の位置は分からなかった。上流部は砕石場や廃棄物置場として土地が利用され、面影はほとんどない。
HEYANEKO氏の調査によると、集落には学校(城端小学校上田分校。昭和48年閉校)があったそう。
資料『城端町の歴史と文化』によると、二ッ屋の地名の由来は落武者前田氏と寺院(改上寺)(※2)の2軒が居住していたことによるという。細尾(ほそお)峠道・小瀬(おぜ)峠道(※3)の交通の要所で、五箇山や白川の街道の宿場として栄えたという。炭焼きのほか荷物を運ぶ「ボッカ」として働く人も多かった。
「角川」によると、住民は昭和48年理休(りきゅう)地内の折田林へ集団移住し、49年閉村式。
また資料『村の記憶』には村跡として家屋の並んだ写真が掲載されており、本文でも「今でも生活できそうな村跡であった」「空家が三戸残っている」とある。筆者の訪問が平成であるので、私が訪れるまでにこの3軒は取り壊されたのだろう。なお神社の熊野社は、平成2年に北野天満宮に合祀されたという。
大字上田は、近世の礪波郡山田郷の二ッ屋(ふたつや)村。。明治12年上田村と改称。明治22年大鋸屋村(のち城端町)の大字となる。明治5年30戸174人、昭和5年42戸、同46年22戸、同48年8戸(角川)。
※1 『村の記憶』では「稲葉」。誤植か
※2 碑では「海乗寺」
※3 細尾峠…大鋸屋地区と平村【現・南砺市】を結ぶ。現在は細尾トンネルが開通。小瀬峠…大鋸屋地区と上平村【現・南砺市】を結ぶ
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