◆臼中(うすなか)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「下梨」(昭和32.8)を使用したものである
所在:南砺市臼中
地形図:湯涌/下梨
形態:川の合流部に家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約300m〜(水面は約330m)
訪問:2011年6月
町の南東部、小矢部川支流の打尾川上流部にある。現在は臼中ダム建設に伴い水没している
湖畔には「臼中の里伝承碑」(写真2)をはじめ、意外なほど多くの関係物が置かれている。現在鳥居が移設されている春日社や学校(福光南部小学校臼中分校・福光中学校臼中分校)は、水没前は川の分岐付近にあったよう。
以下は碑の全文(前後部分省略)。
臼中の里は、寿永(一一八三)の頃、砺波山の合戦に敗れた平家の武士が隠遁百姓となり、この地に住みついたと伝えられている。この地名は、臼の中のように窪んだ地形から名付けられたと言われている。以来、おおよそ八百年の歳月を艱難辛苦に耐え、田畑を開き村を守り継いできた。その後の変遷は確かではないが、文化三年(一八〇六)頃には七十二戸の聚落であったという。しかし、永年炭焼で生活を支えてきたが、時代の変遷と共にその需要は減り生活も次第に苦しくなったため、転住するものが増え、昭和二十年代には二十八戸が在住する聚落となった。
ときに、昭和五十年、聚落全体が湖底となるダム建設計画が提示されたため住民に不安と逡巡の声が揚がった。しかし、旱魃と洪水に苦しんだ人々の懇望が強く、臼中聚落住民も遂にこれを受け入れ、昭和五十三年三月県当局と同意の調印を行なうに至った。同年九月十二日の秋祭を最後に、鎮守社を小矢部市水島(みずしま)長谷川神宮敷地内に遷座すると共に閉村し、さまざまな思いを胸にこの地を去ったのであった。その後、ダム建設工事は順調に進み平成二年(一九九〇)に完成し湛水が開始された。臼中の里は永遠に湖底で静かに眠りこの地を守り続けることであろう。
以下は各戸の動向。
番号 |
姓 |
碑建立時(平成5年)の居住地 |
1 |
荒井 |
城端町【現・南砺市】 |
2 |
上田 |
埼玉県鶴ヶ島市 |
3 |
〃 |
千葉県柏市 |
4 |
〃 |
町内 |
5 |
〃 |
千葉県松戸市 |
6 |
川端 |
町内 |
7 |
北口 |
〃 |
8 |
坂本 |
〃 |
9 |
〃 |
〃 |
10 |
〃 |
〃 |
11 |
杉森 |
〃 |
12 |
高橋 |
〃 |
13 |
滝下 |
〃 |
14 |
竹島 |
砺波市 |
15 |
竹本 |
町内 |
16 |
〃 |
石川県金沢市 |
17 |
谷口 |
砺波市 |
18 |
橋詰 |
〃 |
19 |
〃 |
町内 |
20 |
藤田 |
〃 |
21 |
本田 |
〃 |
22 |
〃 |
〃 |
23 |
前田 |
〃 |
24 |
宮川 |
〃 |
25 |
山越 |
〃 |
26 |
山本 |
高岡市 |
27 |
〃 |
町内 |
28 |
和泉 |
埼玉県日高市 |
村史によると、昭和53年9月12日閉村式。当時20戸76人。また同年11月1日分校の閉校式。
なお大字臼中は、近世の礪波郡太美(ふとみ)郷の臼中村。明治22年太美山村(のち福光町)の大字となる(角川)。
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