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◆阿蔵平(あぞうびら/アザビラ



※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「苗塲山」(大正4.6)を使用したものである

在:津南町赤沢(あかさわ)
地形図:赤沢
/苗場山
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:災害
標高:約280m
訪問:2019年11月

 

 大字赤沢の北東部、中津(なかつ)川左岸にある。
 旧版地形図に記された道に従い、まず高台となっている西側より訪問。しかし急斜面に設けられた道は途中で崩落し消滅しており、上部から訪問することはできなかった。なお降り口には、道の開鑿を記念した碑(写真3)がある。世話人として瀧澤氏2名、高橋氏2名、清水氏1名が記されているが、集落の関係者だろうか。道幅は意外に広く、往時は荷車程度は通れたことが窺える。
 改めて石坂集落より川沿いに訪問。道はなく、石の転がる河原や藪の川岸を歩くことになる。現地一帯は広い平坦地であるものの、ほぼ全体が藪に覆われ分け入っての探索は非常に困難。北側には後年になって何かの目的で整地された平坦地が見られるが(写真7)、人家があったのもこの辺りであったよう。
 聞き取りによると、10数年ほど前までは集落跡に水田があり、上部からの道を通って耕作していたという。地元での呼称は「アザビラ」。
 また町史によると、「阿蔵平」の初見は宝暦6(1756)年の赤沢村新田検地帳で、当時田7枚・畑2枚・屋敷1箇所。開発は宝暦5年直前頃と推定されるとのこと(ルビは「あざびら」)。寛政11(1799)年、甚四郎氏・源左衛門氏の2軒。文政11(1828)年頃には開発がかなり進んでいたが、同年7月洪水のため耕地が流失。当時の惣右衛門氏は復旧に努め農地を再興させたが、その後も災害に遭い次第に困窮。同氏の開拓は終わりを迎えた。その後大正3年の大洪水により潰滅的な被害が生じ、以後無住となった。

 


写真1 崖上から集落へ降りる道


写真2 崩落箇所

写真3 降り口の碑

写真4 川沿いの道跡?

写真5 農地跡付近(遠景)

写真6 農地跡方面

写真7 集落跡付近?

写真8 写真7正面。一段高くなった場所がある

 

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