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◆雷(いかずち



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「長岡」(昭和22.6)を使用したものである

在:長岡市一之貝(いちのかい)
地形図:栃尾
/長岡
形態:谷沿いの斜面から尾根にかけて家屋が散在する
標高:約300m
訪問:2016年11月

 

 大字一之貝の南部、矢津川(刈谷田(かりやた)川二次支流)の上流部にある。
 以下は市史より当地の概要。

当地はかつて一之貝の耕地であった。一之貝と当地の往復は1日3、4回が限度で収穫物や肥料等の運搬には不便であった
明治15年、当時の村長諏佐氏らにより当地への入植が提唱される。まず希望者が募られ、剣持・渡辺・今井・中野・五十嵐の各氏が入植を希望した
昭和初期には16戸に増加。主産業は稲作で、地味が肥沃であったため栃尾でも屈指の米の産地であった。入植後は養蚕も行われるようになるが、昭和12、3年をピークに衰退
第二次世界大戦の際は空襲による疎開者が流入し、22戸まで増加。終戦とともにこれらは帰郷し、再び旧来の16戸に戻った。
昭和30年代の高度経済成長期の頃より、農業のみでの生活が行き詰まってきたこと、若年層の流出、通学の問題などにより離村が進む。昭和44年11月末、9戸全戸が一之貝・荷頃・長岡市へ転出し無住となった
転出した各戸や、売却を受けた縁者らによって通い農業が行われている

 さらに市の情報紙「いこ〜て」によると、平成16年の水害や新潟県中越地震により大きな被害があり耕作放棄地となっていたが(※)、棚田を復興させるべく「棚田の生き物を愛する会」が発足。酒米を育てているとのこと。これにより日本酒「壱醸」が誕生している。

 現地には水田が広く見られ、小屋が点在。神社跡と思われる杜には、「紀念碑」(昭和2年、住民一同による設置。写真10)が建つが、これは集落開基50周年を記念したものであるよう。
 以下は碑文。


雷部落明治十五年當時一之貝村戸長諏佐作太氏之基于開拓大計爾来茲于至滿五十週(表記ママ)
開拓者 中野清九郎 渡邊五郎次 剣持與助 今井作右エ門 五十嵐六郎右エ門

※ 先の市史は昭和56年刊行

 


写真1 集落風景


写真2 屋敷跡?

写真3 小屋

写真4 屋敷跡?

写真5 田と小屋

写真6 古い電柱

写真7 水田のある景色

写真8 神社跡?の石段

写真9 神社跡?にて

写真10 碑

写真9 水田

写真9 池と水田

 

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