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◆勝瀬(かつせ)



※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「上野原」(昭和8.2)を使用したものである

所在:相模原市緑(みどり)区日連(ひづれ)
地形図:与瀬/上野原
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約140m(水面は約170m)
訪問:2009年3月

 

 町の東部、現在の相模(さがみ)湖に水没している。
 南部の湖畔にはかつての春日山鳳勝寺の跡地(日連1702番地)とそのことを示す標柱が残っており、敷地には「ふる里の碑」・県知事の句が刻まれた碑・「紀念碑」が建てられている(写真1)。標柱によると、寺院は昭和18年相模湖誕生とともに海老名市に移転した。その後「海老名市勝瀬」という地名が誕生するに至っている。

 1940913日、移転の正式な調印。1115日、離村式。11世帯が相模湖町【現・相模原市緑区】与瀬(よせ)へ移転。他は海老名村(海老名市)・日野村(東京都日野市)・八王子市など。(「相模湖町史」)

 土地はもともと相模川の堆積地で肥沃。1879年頃に手掘りでトンネルを掘り、水を引いて新田を開発、広い水田があった。村人には開発された田が平等に与えられ、小作人は勝瀬にはいなかったという(ただし異なる証言もある)。
 米のほかに養蚕・鮎釣り相手の旅館・釣り舟といった産業もあった。
 園部姓が多い(「相模ダムに隠された真実」)


 勝瀬部落史(記念碑より)(※)

相模湖底に没した勝瀬部落は人皇第百四代御柏原天皇の御代文亀元年 法泉一族と共に湘南地方より来り土地の中央に草庵を結び附近を開墾し自給自足以って余生を送りしものの如く世人是を尊びて御庵と称し今に云われり。即ち之れ部落の開闢にして鳳勝寺の開祖たり。惟うに当時は足利の末期 所謂戦国時代なれば戦友故旧の菩提を弔んが為一面山を帯び三面川に囲繞せられたる人跡稀なる地を撰びしものならん。是実に今を去る四百三十九年前(昭和二十年現在)なり。
爾来 次第に発展し徳川氏の中世以降に於ては京浜方面より甲信地方への輸出入の貨物は小仏の険路を避け神奈川迴しとなり悉く本部落に入り為に村内には荷続問屋あり酒造あり醤油倉あり米穀荒物の百貨店ありて勝瀬仕入れと称し遠く郡内地方と盛んに取引きをなせり。
然るに国道の改修と鉄道の敷設とは是等貨物の集散を奪い加え明治初年以降積年の洪水は田畑の流失荒廃を来たし部落民の生活に非常なる脅威を感ずるに至れり。茲に於て我等の先輩は幾多の犠牲を払い明治十五年部落中の土地権利書を担保に入れ銀行より借入金を行い九町余歩の荒田を穫し以来辛苦経営更に昭和五年耕地整理に依り六町歩の開田を得たり。之れに依り田十八町余歩畑二十五町余歩山林原野百三十町歩となり漸く部落民生活の安定を得るに至れり。続いて同六年には二瀬越渡しの架橋となり部落内の道路を改修し産業組合の経営は県下の模範となり一路理想郷の実現に向かって邁進しつつある時 霹靂一声 昭和十三年一月県営相模川河水統制事業の建設は宣言せられたり。

嗚呼何たる時代の激変ぞや 部落民一同茫然自失為す所を知らざりしも翻って考うるに斯る国家的大事業に対し一切を挙げて其の湖底に没せしむとも其の貢献の大なるを思えば亦悔ゆるなしと潔く在住八十四世帯は県下海老名町新勝瀬を創設し二十二世帯東京都日野市に十四世帯八王子市に十二世帯相模湖町に十二世帯其の他の各自の欲する所に安住の地を索めて移住を行ったのであります。

 移住完了 昭和十九年十月


※ 現地の碑に同様の文があるが、資料からの引用。
誤字がある可能性がある。明らかな間違いは訂正した。(「番羽って→翻って」「侮ゆる→悔ゆる」など)

 


写真1 鳳勝寺跡の石碑群


写真2 集落跡

写真3 勝瀬橋(撮影時期不明)

 

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