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◆合角(かっかく)



※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「万場」(昭和15.7)を使用したものである

所在:小鹿野町日尾(ひお)
地形図:長又/万場
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約310m(水面は約320m)
訪問:2020年11月

 

 大字日尾の南部、吉田(よしだ)川(荒(あら)川二次支流)沿いにある。現在は合角ダムの人造湖(西秩父桃(にしちちぶもも)湖)に水没。
 資料『秩父合角ダム水没地域総合調査報告書』に掲載された家屋配置図によると、かつての家々は以下のとおり(それぞれ概ね上流側より)。

左岸…小森・強矢・黒沢・黒沢・強矢・黒沢・桜井・町田・新井・(合角集会所)・黒沢・黒沢・黒田・黒田・黒田・丸山
右岸上流…新船・宮本・黒沢・黒沢・島田・嶋田
右岸下流(大向)…木村・今井・黒沢・黒沢・大場・大場・大場・柳原・柳原・柳原・柳原

 ほか七社神社・お天狗様が神社の記号で記されている。
 また集落はさらに上組・西組・北組・大向の4地区に細分されている。図からは右岸の下流側が「大向」と分かるものの、その他の地区の境界は不明。
 電灯の導入は昭和3年。旧倉尾(くらお)村(日尾および藤倉が村域)では群馬県上野村の新羽の発電所から引かれ、矢久峠を越え最奥の森戸から始まり、当地が最後であった。
 電話の普及は昭和50年代以降。最初は小鹿野から引く予定であったが、吉田町【現・秩父市】の塚越からの方が容易とのことで、吉田局へ加入した。

 かつての家々のほとんどは現在の合角漣(―さざなみ)大橋の南側に集中しており、ほか先述の強矢家・黒沢家が橋の真下付近、小森家と丸山家が橋の北側に離れて位置している。
 橋の東西の袂付近には水没地より移転した石造物がまとまって置かれた一角があり(写真5・14)、当地には多くの石造物があったことが窺える。うち寺院跡の碑(昭和51年、倉尾文化財保存会による)(写真6)によると、当地にあった寺院は眞福寺。創立不詳、明治6年廃止。
 水没を免れた左岸部分(川の彎曲部の内側)には、望郷の碑や新しい墓が見られる(写真9・10)。さらに墓の裏手には祠の跡(写真11)、道路より南には複数の祠が納められた社が見られたが、先述の七社神社か(写真12)。

 


(写真1 ダム堰堤)


(写真2 下流側〔=秩父市方面〕の湖面。右は堰堤、左は倉尾橋)


写真3 小鹿野・秩父境界の石仏。「文化十一戌年」「九月吉祥日」とある


写真4 写真3隣の石塔。「金山神」?とある


写真5 石造物群。右より「坂東大五郎翁之碑」、「坂東大五郎略歴碑」(※)、「合角樹園地造成記念碑」、大日如来像(※)、灯籠。像と灯籠はもと天狗岩の上にあり、灯籠には「大日如来/大天狗 御神燈」とある
(「※」は資料より判明)


写真6 寺院跡の碑(移設)。「眞言宗大向山眞福寺跡」とある


写真7 湖面へ続く道。中央はカーブミラー


写真8 合角漣大橋と集落跡(手前の水面下一帯)


写真9 小祠と望郷の碑。祠には「合角神社」とある


写真10 墓地(強矢氏)


写真11 祠跡


写真12 七社神社?


写真13 神社付近の小祠・灯籠


写真14 石造物群。左から梵字塔(※)、「供養塔」、「大黒天」、「庚申塔」、「巳待供養塔」、「馬頭尊」、「御尊塔」、小祠
(「※」は資料より判明)

 

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