◆新川(しんかわ)
※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「熊谷」(明治43)を使用したものである
所在:熊谷市新川
地形図:熊谷/熊谷
アクセント:シンカワ
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:本文参照
標高:約20m
訪問:20016年3月
JR高崎線行田駅の南西、荒(あら)川左岸河川敷にある。 市史および『荒川の水運』によると、当地は明治7年に下久下村と江川村が合併し、新川村として成立したもの(いずれも大里郡)。旧下久下村(西側)が新川上分(かみぶん)、旧江川村(東側)が新川下分(しもぶん)と呼ばれるようになった(のち久下村との合併を経て現在の熊谷市新川に至っている)。洪水を避けるため、昭和15年から25年にかけて全戸が移転。『荒川の水運』に記された絵地図「大正時代の新川河岸図」には、上分で農家・船頭・筏乗り・渡し守・廻漕問屋・筏問屋・寺院(保全寺)など37の家屋と三嶋神社、下分でも農家・筏乗り・船問屋・商店など34の家屋と九頭竜大神・八幡神社が記されている。
また舟運の拠点であった河岸(かし)が置かれていたとのこと(新川河岸)。旧村名から江川河岸とも。創設は寛永6(1629)年の荒川瀬替え工事以降で、当時の忍(おし)藩の年貢米や御用荷物の運送が主な目的であった。明治頃の主な搬出物は米や炭など、搬入物は日用雑貨・塩・肥料などであった。明治18年上野‐熊谷間に鉄道が開通し衰退、大正末期には姿を消した。
また当地には「天水(てんずい)の渡し(九頭竜(くずりゅう)の渡し)」および「上分の渡し」と呼ばれる2箇所の渡船場もあった。地図画像では右下(下流)に天水の渡しのみが記されているが、もう少し西側(上流)に上分の渡しがある。これも鉄道の開通により衰退し、天水は昭和12年頃、上分は昭和10年頃廃止。
現在は家屋の類はほぼ見られないが、全域に亘り広く田畑の耕作が行われている。また集落の絵地図(新川ウォーキングマップ)や各所には解説の立札が設置されており、散策する上で非常に参考になる。これらによると、明治期には94戸532人が暮らしていたよう。
上分では、村社の三嶋神社跡(写真1-5)や共同墓地ほか数箇所の墓地・保全寺跡を確認。名主を務めていた木村(きむら)将監宅地ほか数箇所の屋敷跡にも立札が置かれている。また有志団体により「菜園村」(写真18)や「子ども遊びの森」が設けられており、先述の絵地図や集落の説明板(後述)は菜園村の前に置かれている。
下分では観音寺跡の墓地(写真27)や数箇所の屋敷跡を確認。鎮守であった八幡神社は農地(春は菜の花畑、夏は牧草地)となり、跡形もない。
墓地で確認できた姓は、上分で大嶋・岩井・岩崎・吉岡・鈴木・金子・小寺・太田・小島・利根川・村田。下分で新井・吉岡・山岸。
以下は上分にある説明板「ようこそ幻の村・新川へ」の全文。
新川村は戦後間もなく廃村になりましたが、江戸時代のはじめの頃から三百年の間、五百人余の人々がここに暮らし、舟運や養蚕の村として栄えました。
河岸には廻船問屋や筏問屋、塩問屋、油問屋が軒を並べ、江戸浅草と武州新川を結ぶ荒川を帆掛け舟が往復し、荷が着く日には大八車や馬を引く人達で賑わいました。又秩父山中から流した木材は筏職人たちが筏舟にして江戸へと運びました。
明治十六年、鉄道の開通で舟運は姿を消しましたが度々この地を襲う大水は豊かな土壌をもたらし良質な桑が特産となり、養蚕が盛んとなりました。やがて、絹からナイロンなどの化学繊維の時代となり養蚕も廃れると、大水に追われるように人々はこの新川を去っていきました。
荒川の瀬替えとともに生まれ、文明の進化により滅びた村新川。
私たちはここを幻の村・新川と呼びます。今、この地は荒川の遊水地であり、野鳥や野生の動物達の棲家となり、ここを愛する人たちの心のふるさととして息づいています。
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