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◇下久保(しもくぼ)ダム

 

 以下は『下久保ダム工事誌』および神泉村誌より、主な沿革。

 昭和33  下久保ダム連合対策委員会結成
 昭和34  下久保ダム連合対策委員会、神泉村長に陳情書を提出(3月)
 建設省が計画発表。建設省関東地方建設局下久保ダム調査事務所開設(4月)(昭和36〜工事事務所)
 昭和37  事業が水資源開発公団に継承
 下久保ダム連合対策委員会および万場町対策委員会に対し第一次補償基準を発表(1.19)
 下久保ダム連合対策委員会、水没関係者決起大会開催(1.21)
 第二次補償基準を発表(12.9)
 昭和38

 鬼石町・神泉村関係の公共補償交渉開始(1.29)
 群馬・埼玉両県の斡旋により下久保ダム補償基準仮調印(4.9)
 下久保ダム連合対策委員会と補償基準の調印(6.6)
 下久保ダム万場町対策委員会と補償基準の調印(6.7)
 個人補償の交渉開始(6.22)
 吉田町関係公共補償交渉開始(8.1)
 鬼石町公共補償基本協定書調印(12.25)
 神泉村・吉田町関係公共補償基本協定書調印(12.27)

 昭和39  万場町関係公共補償交渉開始(2.15)
 同補償基本協定書調印(3.4)
 本体建設工事着手(3.26)
 昭和42  県道(※)付替工事完了。10月より通行開始
 太田部橋竣工
 昭和43  本体建設工事完了(3月)
 金比羅橋竣工
 竣工式(11.13)
 昭和44  下久保ダム管理所発足(1.1)

※ 平成5年より国道462号となっている


 また以下は現地の「水没之碑」(昭和43年4月)の碑文。

 群馬縣多野郡鬼石町大字保美濃山に水資源開発公団が下久保ダムを建設するに当り坂原矢納及太田部と共に此の國策の大事業を理解して協力した結果として水没者は移転せざるを得ず 戸数一三四戸が村外九一戸村内二二戸の移転となり殘存四三戸となつた
 保美濃山はかつて保美濃山村であつたが明治二十二年讓原村坂原村との連合が成立して美原村となり立派な文化村を形成していた 美原村は昭和二十九年町村合併促進法に基き鬼石町三波川村と合併して鬼石町となり大字保美濃山として村社拔鉾神社を中心として地域全体が一致した平和な山村として発達し人情風俗の美を誇りとする 産業は植林養蚕の外に特産蒟蒻栽培が盛んで将来に期待をかけていたが移転によつて分散することは情において誠に忍びがたい 殘存者は移転者各位の発展を祈念すると共に保美濃山の祖先の傳統を守り更に努力して新らしい伸展をとげて住民相互の幸福を喜びあう理想郷とするために益々協力し各々精励することを誓うものである よつてここに水没の碑を建立する

 


写真1 ダム堰堤


写真2 水没之碑

 

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