戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ

 

◆西沢(にしざわ)金山



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「燧嶽」(昭和21.11)を使用したものである

所在:日光市川俣(かわまた)
地形図:川俣温泉/燧ヶ岳
形態:谷沿いに家屋や施設が多数集まる
標高:約1,380〜1,480m(中心部)
訪問:2019年5月

 

 大字川俣の南部、西沢(鬼怒(きぬ)川支流)の上流部にある。
 村誌によると、
明治後半から大正初期にかけて、高品位の金を含有する鉱脈を持つ金山として知られていたという。最盛期である大正初期には、1,300人もの労働者が働き、戸数は200戸を超えていた。以下は主な沿革。

 江戸時代  元文2(1737)年・寛保2(1742)年・弘化4(1847)年に、江戸の人々らによって試掘が行われた
 明治26  川俣の人々が伝承をもとに調査したところ、多くの純鉛塊を発見。共同所有として試掘願を提出
 日光の高橋源三郎が鉱山を買収
 明治28  有望な鉱脈を発見。翌年には精錬所が完成
 明治37  鉱業権を小川源次郎・手束藤三郎に譲渡
 明治38  西沢金山探鉱株式会社設立
 明治43  自社精錬施設完成
 大正5  西沢金山探鉱株式会社が西沢金山株式会社と改称
 大正10頃  休山
 昭和7  鉱業権を日光鉱業株式会社に譲渡
 ?  鉱業権を日本鉱業株式会社に譲渡
   この間、一時再開されたこともあった
 昭和47  日本鉱業が鉱業権放棄。廃鉱


 訪問は川俣温泉方面より山王林道を利用。まず鉱山街中心部に至る前に、金山寺跡を見ることができる(写真1・2)。鉱山街では段々になった土地が広く見られ、大規模な集落があったことが窺える。特定できた施設等の跡は寺院跡のほか神社(写真6-8)・選鉱所(写真13)程度。殊に川沿いにあった選鉱所・製錬所といった大規模な施設があった一角には、堰堤工事の際に設けられたと思われる作業道が敷設され、痕跡が分かりづらくなっている。集落内の尾根にある比較的広い平坦地には「金山平」と記された棒杭(写真28)が設置されているが、往時はここに雑貨店が置かれていたよう。離村時期が早いこともあってか、全体的に遺構はそれほど多くはない。

 


写真1 「西沢金山寺」の木柱のある平坦地


写真2 写真1にて。中央の石は墓石(千葉氏)。左後方は卒塔婆


写真3 解説板


写真4 鉱山街遠景


写真5 坑口


写真6 神社。参道と一対の台座


写真7 同。拝殿跡?


写真8 同。祠が朽ちている


写真9 選鉱所付近?の石垣

写真10 同

写真11 精錬所付近?の石垣

写真12 分析所跡?

写真13 「選鉱所跡」の標柱(設置場所は精錬所跡?)

写真14 建物跡(鉱場・販売部付近?)

写真15 集落風景。右の平坦地は事務所跡か

写真16 学校跡?

写真17 同?

写真18 遺構

写真19 遺構

写真20 平坦地

写真21 石段

写真22 段々の石垣

写真23 平坦地。右に階段

写真24 やかん

写真25 平坦地

写真26 道

写真27 平坦地

写真28 「金山平」の標柱

写真29 「金山平」付近(雑貨店跡?)

写真30 同

写真31 建物跡

写真32 遺構

写真33 石垣のある平坦地

写真34 写真31登り口

写真35 道

写真36 平坦地

写真37 平坦地

写真38 平坦地

写真39 職頭長屋跡

写真40 同

写真41 十王峠・戦場ヶ原方面への道

写真42 飯場跡(以下陸夫飯場にて)

写真43 同

写真44 水瓶?

写真45 何かの残骸。煉瓦が見られる

写真46 飯場の風景

写真47 飯場跡(以下坑夫飯場にて)

写真48 遺構

写真49 飯場跡

写真50 壜

写真51 遺構

 

戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ