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◆沢田(さわだ)



※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「湊」(明治40.5)を使用したものである

所在:ひたちなか市阿字ケ浦町(あじがうらちょう)
地形図:ひたちなか/ひたちなか
形態:緩い谷沿いに家屋が集まる
標高:数10m
訪問:2019年5月

 

 阿字ケ浦町の最北部にある。
 現在は集落の西部が国営ひたち海浜公園の敷地内となっているが、ガイドツアー開催時を除き立ち入ることができない。
集落の上流に当たる「沢田湧水地」のエリアは一般開放されているが、周囲で集落の痕跡らしいものは確認できなかった。また東部は茨城港の開発に伴い造成されており、自動車で一瞥する限り痕跡は見られない。
 園内にある自然観察・体験学習の拠点「ネイチャーハウス」(写真2)にある資料によると、「千々乱風(ちぢらんぷう)が吹いた村」という以下のような伝承が残されているという。

かつて茨城県の海沿いに大塚(おおつか)村・二亦(ふたまた)村・青塚(あおつか)村という3つの村があり、沢田川のほとりで盛んに製塩を行っていた。ある年の初秋、村の家々や製塩小屋が砂丘からの砂を含んだ大風に襲われてしまう。風が75日間吹き続けたところで一人の老婆が現れ、まじないの言葉を唱えこれを収めた。風は止んだが村は潰滅、村人は再び大風が起こることを危惧し、阿字ヶ浦に移住することを決意。その後は末永く平和に暮らしたという。なおこの大風のことを、老婆の呪文「チンチンバラチン チンバラチン…」から「千々乱風」と呼ぶようになった。

 さらにこの伝承を検証する調査報告(市広報誌の記事)も閲覧できる。過去の史料から、海岸沿いに近世初期に集落が存在していたことや製塩が行われていたことなどを実証し、周囲では人骨・土器・古銭といった遺物も発掘している。大塚・二亦・青塚という名称については明確な記録は見つかっていないが、これら3つの村々は沢田川周辺の太平洋に面する辺りに存在していたのではないかと推察している。なお海岸沿いの集落は、伝承で「前田千軒、後田二千軒」と喩えられるほど栄えていたよう。さらに移転先として、前浜(現在の阿字ヶ浦)・馬渡・横道坪(現在の長砂)も挙げられている。
 これらの集落は製塩のために親村から海岸へ進出したが、飛砂など居住環境が悪く再び親村に戻ったものであるとのこと。ただし若干が残留し、江戸時代から明治期まで製塩を行っていたという。

 旧版地形図に記されたものは、この製塩を行っていた家や小屋の名残だろうか。

 


写真1 園内の案内図。「沢田湧水地」と「沢田湧水ネイチャーハウス」が記されている

写真2 沢田湧水ネイチャーハウス

写真3 沢田湧水地の説明板

写真4 湧水地

写真5 集落方面へ向かう遊歩道

 

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