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◆保城(ほじょう



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「糸澤」(昭和22.6)を使用したものである

所在:南会津町森戸(もりと)
地形図:松戸原/糸沢
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約940m
訪問:2023年6月

 

 大字森戸の中部、保城川(舘岩川支流)沿いにある。

 村史によると、寛政7(1795)年7戸の木地挽が来住。昭和19年に木地業は廃業し、製炭に転業。昭和29年までに全戸が高杖原に移住したとのこと。編者が訪れたという昭和13年当時は23戸。神社は土津社・天王社。
 また『奥会津南郷の民俗』および南郷村史によると、当地の木地挽集団の来歴は以下のとおり。

1 若松七日町〜仁平治山(岩瀬郡)天正18(1590)年〜
2 湯本山(岩瀬郡)
 ・葦之女(吉之眼)(※1) 慶長13(1608)年〜
 ・下之小屋(更目木) 延宝3(1675)年〜
 ・湯小屋(二俣) 元禄6(1693)年〜
3 針生山 戸板沢(田島町) 延享2(1745)年〜
4 (※2) 宝暦6(1765)年〜
5 保城(舘岩村) 寛政7(1795)年〜
6 高杖原(舘岩村) 昭和25年より移転開始、28年移転完了

※1 南郷村史本文では「葺之眼」とあるが、「葦之眼」が正しいよう
※2 『奥会津南郷の民俗』では伊南郷入小屋、南郷村史では駒戸山戸板小屋(南郷村)とある

 なお『奥会津南郷の民俗』によると、明治に小学校の分校が作られ、教育が行われていたとのこと。高杖原の移住後は、農業や宿泊業などに転業している。
 「高杖原」の読みは「たかつえはら」あるいは「たかつっぱら」。


 昭和22年・同23年の航空写真では多数の家屋が確認できるものの、同51年のものでは建物が1棟のみとなっている。現在もこの建物(『奥会津南郷の民俗』によると学校法人の山岳OB会の小屋)が残るのみで、他の屋敷跡もほぼ痕跡は見られない。墓地は林道沿いにあり、多数の墓石が残されている。安永・寛政・文化・文政といった元号が見られ、近代のものでは小椋・佐藤・菊地といった姓が見られた。神社跡は未確認で、現地で会った方の話では参道の石畳も撤去されたという。当方で神社跡と推定した場所もあったが、飯場跡ではないかとのこと。
 なお林道入口の説明板によると、「保城木地師集落跡」は南会津町指定の史跡で、平成29年1月に指定されている。以下は説明板より。


 木地師は、轆轤を用いて、主に漆器の素地(椀等)を製造する職人をいい、素地の材料であるブナ・トチノキ・ケヤキ等が無くなると、移住を繰り返した。また、木地師の集落は小屋や轆轤という地名で呼ばれていた。
 保城木地師は、延享二年(一七四五)に湯小屋(岩瀬郡天栄村二岐温泉)から、深沢小屋(ふかざわごや)(南会津町田島地域針生)に移住し、宝暦七年(一七五六)に駒止小屋(こまどごや)(南会津町南郷地域東(あずま))に移住した。その後、寛政七年(一七九五)にその内の七軒が保城小屋に移住し、文政十年(一八二七)には十軒、五十六人が生活をしていた。ここには、昭和二十年代まで約一六〇年間居住していた。
 ここで製造された椀等の素地は、馬等で会津若松に輸送し、漆が塗られ会津漆器として全国に流通した。
 保城小屋に移住した年代が明確であり、集落規模が大きく、居住期間が長期に渡ることなどから、木地師の歴史、特に生活史を後世に伝える上で、貴重な木地師集落跡である。

 南会津町教育委員会

 


写真1 林道入口の説明板

写真2 林道と屋敷跡

写真3 平坦地

写真4 遺構

写真5 皿

写真6 平坦地

写真7 小屋

写真8 平坦地

写真9 墓地

写真10 集落跡の標柱

 

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