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◆八総(やそう)鉱山

地形図:荒海山/糸沢
離村の背景:産業の衰退
訪問:2023年6月

 

 荒海山(あらかいざん)の北尾根の東西に所在する鉱山。大字八総の南東部、戸坪沢支流にあった旧八総鉱山と、大字滝原(たきのはら)の南西部、荒海川(阿賀(あが)川)上流部にあった旧滝ノ原鉱山に分かれる。銅のほか鉛・亜鉛・硫化鉄を産出した。
 滝原側には大規模な鉱山街が形成されていたが、八総側の住居の有無は未確認。

 町史によると、鉱山の大まかな沿革は以下のとおり。

幕末より、滝ノ原村(田島町)と岩下村(舘岩村)の境界にまたがる荒海山中では、銅・鉛の鉱脈が発見され、山師による試掘が行われていた。しかし小資本のため発展を見せなかった。
明治11年古河市兵衛が鉱業権を取得。同18年以降休山。
明治27年、田野元次郎が銅鉱の採掘権を取得。同34年、田野氏が中沢友一郎を採掘共同人として改めて採掘権を登録。この頃までは開発の対象は舘岩村八総であった。
明治39年、池上仲三郎が田野・中沢両氏より採掘権を譲渡される。明治42年に滝ノ原の鉱区が加わり、池上氏の時代より滝原側の開発が開始した。
大正期に入り、第一次世界大戦により鉱産物需要が高まったが、戦局が終熄に向かうと鉱産物の価格は下落。当鉱山でも、大正7年の産出を最後に休山状態となる。
昭和3年、採掘権は池上氏より久原鉱業株式会社(日本産業株式会社)に贈与。鉱山部門を独立させ設立した日本鉱業株式会社に採掘権が移った。
大正末期以降は休山状態であったが、太平洋戦争の勃発により銅の軍需が急増。この頃滝ノ原の開発が本格化する。
昭和17年、採掘権は日満鉱業株式会社に譲渡。終戦により休山。この時代、滝ノ原鉱山の開発が中心で八総鉱山は休山のままであった。
昭和24年9月、井華鉱業株式会社(のちの住友金属鉱山)が八総鉱山・滝ノ原鉱山の採掘権を取得。同25年5月、井華鉱業の金属部門が独立した別子鉱業株式会社に採掘権を移す。同27年6月、住友金属鉱山株式会社が採掘権者となる。昭和25年6月には開発に着手。有望な鉱床が次々と発見される。
昭和29年、八総鉱山は八総鉱業所に昇格。同年末には滝原選鉱場が完成。引き続き施設の拡充が図られる。
昭和36年頃までは比較的順調に操業していたが、銅価格の下落とコストの上昇により収益は上がらず。さらに住友本社は鉱山の合理化を行い、規模を縮小。その後鉱量の涸渇が明らかとなったため、昭和45年7月採掘を終了し、同年9月閉山となった。

 盛期には、職員住宅17棟28戸、従業員住宅73棟146戸、独身寮1棟。ほか共同浴場2箇所。鉱山付属の診療所や、直営の配給所が1箇所。ほか個人商店が2箇所あった。体育施設として運動場及び体育館があり、こと体育館では会社行事の演劇や映画の上映にも使用された。
 教育施設として八総鉱山小学校があった。同校は昭和25年12月に滝ノ原季節分校として開校。昭和31年1月、荒海小学校八総分校となる。同年4月独立し、八総鉱山小学校となる。昭和45年11月20日閉校。最盛期の児童数は375人。また高等学校進学者のために、会津若松市内に学生寮が設けられていた。閉校後の校地は、昭和46年神奈川県により「神奈川県野外教育センター」が開設した。
 同書の「八総鉱業所附近地形図」より、下流側より清瀬・笹原・末広・朝日ヶ丘・伊勢沢・住吉・大場といった街区があったことが分かる。清瀬には接待館、朝日ヶ丘には小学校、伊勢沢あるいは住吉に理髪店・診療所・淡親寮が記されている。最上流が事業所で、沈殿池・選鉱場がある。
 
以下は年度ごとの鉱山労働者数。

昭和20 昭和27 昭和28 昭和29 昭和30 昭和31 昭和32 昭和33 昭和34 昭和35 昭和36

昭和37

昭和38 昭和39 昭和40 昭和41 昭和42 昭和43 昭和44 昭和45
69 210 147 387 562 564 543 531 537 538 499 168 166 162 158 153 140 122 96 38


 まず舘岩側では数箇所の平坦地が見られたが、建物跡と断定できたのは1箇所のみ。どういった目的の建物があったのか、また継続的な居住者があったか、資料からは判明せず。
 国道から当地の手前までは、車輛が通れる程度の道が通じている。路面の流失ですぐに徒歩になるものの、荒廃はしておらず距離も遠くはないため、訪問は比較的容易。

 田島側では、事業地跡地で現在も鉱山排水の処理が行われている。
 清瀬は釣り堀およびグラウンド(滝ノ原竜神グランドゴルフ場)、朝日ヶ丘は校舎の一部やキャンプ施設が残る。先述のとおり校舎は野外教育センターとして利用されたが、廃止後にオートキャンプ場を経て療養施設として転用されたよう(これも現在は閉業している)。また大場には神社があるが、社殿は現存せず。
 他の街区では建造物はほぼ撤去されており、遺構がいくらか散見されるのみ。伊勢沢の土地は川面から僅かに高い程度で、一部は浸水している。元からこのような状態であったのか、後年に荒海川の河床が上がったのかは不明。

 


≪舘岩村≫



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「糸澤」(昭和22.6)を使用したものである

所在:南会津町八総
形態:谷沿い
標高:約950m?(建物表記付近)

 


写真1 平坦地(建物跡?)

写真2 建物跡

写真3 写真2の遺構

写真4 茶碗

写真5 道

写真6 ズリ

 

≪田島町≫



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「糸澤」(昭和36.1)を使用したものである

所在:南会津町滝原
形態:川沿いに家屋や施設が集まる
標高:約750〜820m

 


写真7 グラウンド(住宅群跡)(以下清瀬)

写真8 釣り堀施設(住宅群跡)

写真9 住宅群跡(以下笹原)

写真10 同

写真11 遺構

写真12 建物跡付近

写真13 電柱

写真14 建物跡

写真15 付近の「釜滝」(荒海川)

写真16 右岸より朝日ヶ丘を見る。橋梁は旭(あさひ)橋(河川の銘板は阿賀川とある)

写真17 写真16付近の看板。野外教育センターの時代のものか

写真18 学校正門(以下朝日ヶ丘)

写真19 校舎跡の一部

写真20 水道と整地ローラー

写真21 何かの建物

写真22 炊事場

写真23 平坦地

写真24 外灯

写真25 遺構

写真26 橋の跡(以下末広)

写真27 住宅群跡

写真28 同

写真29 建物跡の遺構

写真30 住宅群跡

写真31 遺構

写真32 遺構

写真33 遺構

写真34 住宅群跡

写真35 道(手前)と住宅群跡の平坦地

写真36 遺構

写真37 橋の跡。末広から対岸を見る

写真38 対岸より伊勢浜を望む(以下伊勢浜)

写真39 建物跡

写真40 同

写真41 同

写真42 浴場跡?

写真43 建物跡

写真44 焼却炉?

写真45 遺構

写真46 建物跡

写真47 同

写真48 道

写真49 道路沿いの風景(以下住吉)

写真50 遺構

写真51 遺構

写真52 遺構

写真53 建物跡

写真54 住宅群跡

写真55 同

写真56 住宅の遺構

写真57 同

写真58 住宅地の谷

写真59 消火栓

写真60 遺構

写真61 何かの遺構

写真62 住吉より大場方面を望む。橋梁は宮前橋(以下大場)

写真63 神社。石段

写真64 同。鳥居跡?

写真65 同。社殿跡

写真66 中和処理施設(事業所跡地区)

 

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