戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ

 

◆沼ノ原(ぬまのはら)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「熱鹽」(昭和22.4)を使用したものである

所在:喜多方市岩月町入田月(いわつきまちいりたつき)
地形図:熱塩/熱塩 飯森山/熱塩
形態:山中に家屋が集まる
標高:約870m
訪問:2023年6月

 

 大字入田付の北東部、田付(たづき)川の上流部にある。福島・山形の県境にある大(おお)峠の南西およそ1.5qで、往還の宿駅として形成された集落。

 市史によると、大峠越の道は、米沢の伊達政宗が会津侵略のために天正13(1585)年に密かに開いたという。寛永年間には桧原(ひばら)峠越の米沢街道が重要性を増したためこの街道は寛永10(1633)年閉鎖された。
 明治15年、「会津三方道路」
(※1)の工事が始まる。若松‐米沢間には大峠越の経路が選定され、明治17年に竣工。峠の前後は数里に亘って人家がなかったため、宿駅を兼ねて新しい集落が作られることになった。明治18年に移住者の募集が行われた結果、五田沢・中山宿(※2)などから希望者が集まり、明治20年頃には8戸からなる集落が成立。
 人々は木地作りを主な生業とする傍ら、開拓した農地で耕作をしたり、旅客の休泊や運送の手助けなどをしていた。
住民の収入はおよそ9割が木地の売り上げで占めていたが、周辺の木材の涸渇により明治31年以降は激減。明治27年から29年には、峠を越えた山形県側の木を購入し木地作りに充てている。
 稲の栽培も試みたが、高冷地であるため実らず、換金性の高いニンニク・薬用人参・果樹なども失敗。蕎麦・粟・黍・小豆・桑などが栽培可能であったが、明治35年・38年の大凶作により住民を苦しめた。
 明治32年には岩越鉄道(現在のJR磐越西線)が若松まで開通し、さらに奥羽本線が米沢まで到達したことによって、大峠越の米沢街道を利用する人は減少した。
 そのようなことから1戸2戸と下山し、昭和10年には無住となった。
 なおこれ以前にも、近世には11戸(男40人、女30人)が木地挽をして暮らしていたという。木を伐り尽くしたため、寛永9(1632)年頃より桧原の早稲沢(※3)に居を移し、寛文5(1665)年には移転を完了している(『新編会津風土記』)。

※1 会津若松から栃木・新潟・山形の三方へ向かう道路
※2 現在の郡山市熱海町の中山宿か
※3 現在の北塩原桧原の早稲沢(わせざわ)地区


 訪問は根小屋方面より。近年まで往来のあった国道であることもあり、道の状態は全体的に良好。ただし国道のルートが現在のもの(新大峠トンネル経由)になって以降は通行止めとなったようで、根小屋を過ぎるとすぐにゲートが設けられている。
 集落跡はたいへんなだらかな土地になっているが、集落があったことが分からないほど痕跡は見られない。屋敷跡の特定には至らなかったが、山神社跡の痕跡がかろうじて確認できた。最近の地形図では集落の外れ、大沼へ向かう道沿いに建物が記されているが、これは東北電力の山小屋(写真8)。
 なお市史には訪問の記録に「墓地の跡に数基の墓石と、五田沢から移された山の神だけが残っているにすぎない」とあるが、墓石は未確認。「今でも残されている山の神」として石造りの小祠の写真も掲載されているが、いずれも別の場所に移されたのだろうか(刊行は平成13年)。

 


写真1 道路沿いの風景

写真2 道路沿いの石積み

写真3 道路沿いの平坦地

写真4 平坦地

写真5 平坦地

写真6 植林地の木に付けられた林班図

写真7 神社跡にて。祠の基礎

写真8 建物。「東北電力の株式会社沼の原山小屋」とある

 

戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ