◆高倉(たかのくら)鉱山
所在:飯舘村蕨平(わらびだいら)・(南相馬市原町区高倉(はらまちくたかのくら))
地形図:小宮/原町
形態:谷沿いに家屋や施設が集まる
離村の背景:産業の衰退
標高:約440m?
訪問:2023年5月(HEYANEKO氏と共同)
大字蕨平の北東部から大字高倉の西部に亘る鉱山。
町史によると、明治40年頃に鉱床が発見されたといわれ、最初は鉄鉱山として開かれた。大正初年に採掘が行われていたが、第一次世界大戦で休山。昭和12年に高ノ倉鉱山株式会社が設立され、同13年11月から採掘を開始。しかし鉱石中に銅分が多く含まれるようになり、昭和24年北海道電気興行株式会社(昭和26年東邦電化株式会社と改称)が買収すると銅山に転換。昭和27年には11名の職員と115名の鉱員を擁した。昭和31年頃から日鉄鉱業株式会社に経営を委託。鉱床があまり大きくなかったため間もなく掘り尽くし、昭和34年に閉山した。
また地区の郵便配達を務めた人物(蕨平在住、明治42年生)と鉱山に勤めていた人物(大正14年生)への聞き取りが紹介されている。
前者の話では、昭和12年から高倉に郵便配達をするようになったが、これはその頃から人が住むようになったため。当時は20戸くらいで炭焼きをしていたが、秋になり小屋を掛け採掘が行われ始めた。戦時中は最盛期で長屋も相当あり、300戸くらいはあったのではないかという。分教場もあった。
後者は、昭和18年から鉱山に就職。当時は従業員が300人くらいいたが、終戦後は減少。北海道電気興行の経営の頃は、従業員は5、60人ほど。閉山に向け、従業員の多くは日鉄鉱業が採掘を行っていたいわきの八茎鉱山に移ったという。閉山の頃は分教場の子供も10人くらいまで減少していた。
なおHEYANEKO氏によると、当地には小宮(こみや)小学校高倉分校があったとのこと。村史によると、昭和17年開校、昭和35年3月閉校。
訪問は鉱山街のあった飯舘地内のみ。
地図上では県道62号から谷沿いの道が分岐し当地に続いているが、県道が木戸地区で通行止めとなっており以下は徒歩に拠った。なお谷沿いの道は破線で記されているが、十分な幅があり車輛が往来していた時期があったことが窺える。
無住となった後は悉く家屋や施設の撤去が行われたようで、遺構の類はほぼ皆無。道の両側の土地が緩く段々になっており、それとなく集落があったことが窺える。
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