◆長滝(ながたき)
※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「湯殿山」(昭和22.6)を使用したものである
所在:鶴岡市砂谷(いさごだに)字長滝
地形図:下名川/湯殿山
形態:山中に家屋が集まる 標高:約290m
訪問:2018年11月(HEYANEKO氏と共同)
大字砂谷の中部、少連寺(しょうれんじ)川(大山川支流)の上流部にある。大字砂谷に属しているが、砂谷の本村(砂谷川流域)とは稜線を挟んで地理的に隔たれている。
「角川」によると、当地は近世から明治にかけて田川郡の長滝村として存在し、明治9年に砂谷村に合併したとのこと。天保期9戸(廻村手控)・幕末頃8戸(「弐郡詳記」)、昭和28年10戸74人。寺院に曹洞宗の長滝寺があったが、寛政年間に焼失している。昭和48年冬季分校開設(※)。
訪問は少連寺方面より。最近の地図でも地名と複数の建物や神社が見られ、現在も複数の家屋が管理されている。集落西側には田川公民館長滝分館があるが、これはかつての校地。神社は大鳥神社。
また集落内には武将・佐藤基治(さとう・もとはる)の供養塔がある(写真15)。以下は現地の説明板より。
佐藤荘司基治一族供養塔佐藤荘司基治は、平泉藤原氏と姻せき関係にあり、田川氏とも深い関係が続いていた。
文治五年(一一八九)の奥州合戦で基治は信夫郡(福島県)石那坂の戦いで討死すると、その室清子が数人の一族と共に長滝集落に隠れ住んだと言われている。
しかし、この地が深山であまりにも不便な為、北前船で京都とも連絡のとれる加茂港に極楽寺を建立し尼となって亡き夫と、継信、忠信の霊を弔いながら生涯を終えたと言われている。
供養塔には継信の孫である元晴と従臣の名が刻まれている。継信、忠信は基治の子で、源平合戦で弁慶と共に義経を護衛した武将である。
平成十八年三月
鶴岡市文化財愛護協会 田川地区自治振興会 田川郷土史研究会
※ 田川小学校長滝冬季分校。昭和54年閉校(HEYANEKO氏調べ)
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