大字志茂の中部、大横川(最上川二次支流)沿いにある。
訪れていたかつての住民(後述の旧校地の土地所有者夫婦)によると、もと15軒(うち左岸に4軒)。現在は7組が通い耕作を行っているとのこと。炭焼きのほか、養蚕・タバコの栽培が主な収入源であったが、水田の収量は少なかった。後年は出稼ぎや付近の鉱山での労働もあったという。川では良質の砂利が取れるため、離村の前から10年ほど前まで業者による砂利採取が行われていた。現在の農地もこの砂利により嵩上げされ、往時よりも広く立派になったという。元来の表記は「新倉見」であったが、いつの間にか「親倉見」となった。読み公式には「しんくらみ」あるいは「しんぐらみ」だが、地元では「しぐらみ」とも。
また町史によると、大正から昭和初期にかけて入植が行われ、当初は畑作から始まった。集落移転事業により、昭和48年から49年にかけて当時の15戸が集団移転。町内志茂(しも)の清水町(しみずちょう)の団地に移転したとのこと。当地には大正11年、西小国尋常高等小学校の臨時分教場が開設された(※)。
現地には家屋や倉庫などが複数残り、耕地も広く耕作されている。学校跡では校舎が倉庫に転用されている。先述の方の話によると、元々はこの方の家が土地を所有しておりのち学校用地に提供し、閉校後はまた自分の土地として利用しているのだそう。
以下は集落内にある「説明文」と題した碑(写真2)の文章。
私達の先輩は1903年、ここシグラミ原に開拓に入り親倉見集落を創った。それ以来私達は自然とたたかい、耕し、そして泣き、笑い、身を寄せ合って生きてきた。そして最高時、戸数で15戸、人口100名ほどになった。
だがこの集落は全国でも数少ない過疎地域に指定され、1975年大堀駅近くの清水町に集団移転した。
その後25年の歳月が経過した。しかしここは今も私達の心のふるさとである。当時この集落のことを誰もが「シグラミ、シグラミ」と呼んだ。そこで私達はこの地を「しぐらみの里」と名付ける。
20世紀の終わりに当たり私達はここに石碑を建てる。
いつまでも私達はこの「しぐらみの里」を忘れない。いつまでも・・・
西暦2000年8月吉日
親倉見集落移転25周年記念事業実行委員会
※ 後の大堀小学校親倉見分校。閉校は昭和50年(HEYANEKO氏調べ)