大字下生居の飛地部分、生居川(最上(もがみ)川二次支流)の上流部にある。
現在も家屋が複数残り、一見して無住とは分からないほど。集落の中心には石造物が集められた一角があり、離村を記念した「泥部の碑」もある(写真2)。以下は「泥部の碑」の碑文
泥部は下生居村の枝村として、万治二年(一六五九年)に上山藩の「どろぶ山御用御畄山」の山守として五戸が移住したのににはじまる。山畑や沢水を引いて開田した
僅かな土地を耕作し、薪、木炭づくりを生業とした
天保十四年(一八四三年)に下生居村庄屋尾形権左エ門が、冷水山の谷水を引いて坊平から泥部へ通水する、泥部堰(権左エ門堰)を完成してから開田が進み戸数も倍増するに
至つた 大正以後養蚕も盛んとなり 昭和七年には道路も県道に改修されて戸数十三戸 人口 百余名と増加し仝二十五年には冬季分校も開設されるまでに発展した。
その後昭和末期からの急激な社会の変動と生居川ダムの建設等にともなつて次第に過疎化が進み 昭和五十八年には全戸が離村するに至つた
茲に開村以来三百三十五年 度々の冷害や豪雪にも屈せず、村づくりに励んで来た祖先の労苦を偲びこの碑を造立してその業績を後世に伝えようとするものである
碑の表面には「代表」として大坂氏8名・伊藤氏2名・青山氏・木村氏・渡辺氏各1名の計13名の名が記されており、碑の本文にも「十三戸」とあることから、これらは往時の住民と思われる。
なお元の集落から200数十メートル下流側、県道沿いに水田と現住家屋が1軒ある。1970年代の航空写真には存在しないが、泥部の離村後に設けられたものだろうか(往時の泥部住民?)。
HEYANEKO氏によると、碑文にある「冬季分校」は宮生(みやお)小学校泥部冬季分校。昭和47年閉校。