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◆大開(おおびらき)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「中濱」(昭和22.1)および同地形図「太良鑛山」(昭和22.1)を使用したものである

在:藤里町粕毛(かすげ)
地形図:羽後焼山/中浜 真名子/田代岳
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:災害、のちダム建設
標高:約130m(水面は約140m)

訪問:2016年5

 

 大字粕毛の中東部、粕毛川沿いにある。現在は素波里(すばり)ダムの人造湖(素波里湖)に水没。
 資料『秋田・消えた村の記録』によると、戦後最盛期15戸(安部4・小山4・川口2、ほか安保・石田・小森・佐々木などの各家)。昭和38年の水害により離村が相次ぎ、のちダム建設により昭和42年に無住となったとのこと。
 また町史によると、当地にあった米田(よねた)小学校大開分校の沿革は以下のとおり。

 大正10.4.1  大開狩授業所開設。安保氏の自宅の小屋を間借り
 昭和8.3.31  分校開設
 昭和40.12.31  閉校

 集落はほぼ全域が水没し、遺構等は確認できず。現在は付近一帯が素波里国民休養地(猿ヶ瀬園地)となり、湖岸にはキャンプ場・自然公園・レストハウス等の施設が置かれている。敷地内には「大開の碑」と「大開の郷」と題した説明看板が置かれ(写真4)、往時の家屋分布を記した地図も付されている。以下は「大開の郷」の全文。

 白神山地「猿ヶ瀬園地」を中心に、広範な湖底及び周辺を「大開」といい、古くから縄文土器が散見されている。地形的にも、ダム堰堤の急峻な峡谷が外敵を防ぎ、上流間もなく急に視界が広がることから大開の地名と、落武者の伝説が生まれた。更にその上流「どこだい」という地があって、そこには舘跡と、朱瓶や剣がいっぱいあったものだ。という古老の話から、たぶん落城した比内浅利氏の居城「独鈷」を偲んだ落武者で、あろう…と好意的に土地の人は懐かしむ。史実の初見は宝永五年(一七〇八)の粕毛村檢地帳で、住家八軒、畑二町五反歩、屋敷一二八歩とある。ちなみに昭和四十年では住家が十五軒、田十三町歩、畑四町歩、山林他二十六町歩となっている。
 大正九年から、天然秋田杉伐採搬出のため森林軌道を施設ただしトロッコで、気動車が走ったのは昭和九年である。この頃から名勝「鮎の素波里峡谷」が全県的に喧伝された。
 一方、大正九年に大開仮授業所(学校前身)を開設、五年生以上は二時間以上もかかる「あげの峠」を越えて米田小学校へ通学。昭和八年大開分校、その年通学確保のため茂谷トンネルが完通しいよいよ大開の近代化が始まる。
 しかし、昭和三十八年の記録的大水害は森林軌道その他の公共施設を壊滅する。これが契機に昭和四十五年素波里ダムが完成以後水害は克服される。同時に大開の歴史が消えた。
 縄文から脈々とした「大開」の昔日を偲びここに碑を建てる。

 平成四年十一月 藤里町教育委員会

 


写真1 素波里ダム堰堤

写真2 集落方面を望む

写真3 施設

写真4 碑と説明看板

 

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