◆坂下(さかした・さかのした?)
※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「關山峠」(昭和22.5)を使用したものである
所在:仙台市青葉区作並(さくなみ)
地形図:関山峠/関山峠
異表記:坂ノ下
形態:谷沿い
標高:約460m(地名表記付近) 約480m(番所跡)
訪問:2023年5月
大字作並の北部、広瀬(ひろせ)川上流部にある。仙台と山形の天童を結ぶ関山(せきやま)街道(宮城県内では作並街道の呼称)沿いで、かつては坂下境目番所が置かれていた。
まず旧版地形図において地名と建物が記されている付近に訪れたが、現在の道路の開鑿のためかそれらしい痕跡は見られない。また何の建物であったかも不明。
番所跡は坂下川と風倉川の合流部(広瀬川起点)にある。谷を挟んで国道から望むこともできるが、200mほど手前の覆道付近より谷に降り、徒歩で訪れることが可能。
現地には番所跡の標柱(昭和61年、宮城県教育委員会および財団法人宮城県文化財保護協会による)と「關山街道開鑿殉難之地」の碑(昭和4年、養泉寺住職発願)・広瀬川上流端の石柱がある。
以下は番所跡標柱に記された文(■は欠損により判読できず。一部「関山街道さんぽマップ」より補完)。
仙台藩及び他領との境■…■所においた境目番所の一つで、「奥州仙台領遠見記」(宝暦十一年・一七六一年)によれば御境目守を置いた所であると記載されている。通行人はこの番所で改めを受け峯わたり三里と称された関山越の急坂を背負子により荷物を運搬した。
また以下は「關山街道開鑿殉難之地」の碑文。
明治十三年七月廿一日爆死セル廿三名ノ街道殉難者五十年忌ニ當リ各方面ノ賛助ヲ得淨財ノ喜捨ヲ廣ク十方ニ仰ギテ建立ス
なお関山街道フォーラム協議会製作の「関山街道さんぽマップ」によると、宝暦8年(1758年)頃まで御境目守として「岩松長三郎」ほか1名が居住していたとされている(「奥州仙台領遠見記」からの引用)。
また殉難については資料『郷土史仙臺耳ぶくろ』によると、関山街道の隧道開鑿のため、労働者の男女40余名が火薬箱を背負って仙台側から現場へ向かっており、一行は当地で休憩。その時厳禁されていたタバコを吸った者がおり、灰が火薬に引火し大爆発を起こしたという。死者は男13人、女9人。うち1人は妊婦で、碑の23名は胎児を含んだものであるよう。ほか男4人、女4人が重傷。残る人々も皆負傷している。なお労働者の多くは山形の東根の者であった。
読みについては「関山街道さんぽマップ」のルビに拠ったが、やや古い資料には「坂ノ下」の表記も見られ「さかのした」の読みがある可能性がある。
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