◆田代(たしろ)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「鳴子」(昭和22.6)および内務省地理調査所発行の同地形図「藥莱山」(昭和22.6)を使用したものである
所在:加美町宮崎
地形図:鳴子/鳴子
形態:山中の緩傾斜地に家屋が集まる
標高:約450m
訪問:2023年5月
大字宮崎の北部、田代高原にある。
県道沿いには「田代番所跡(アケビ平番所)」の標柱があり、ここから未舗装の車道を下ると集落跡の東端付近を通過する。
集落跡はほぼ植林地。なだらかな土地であり集落があった雰囲気はそれとなく分かるが、屋敷跡の痕跡は分からず。ただし集落内には石仏が残され、「田代地蔵尊」とある(写真5)。また学校跡には標柱があり、僅かに基礎も残る。碑によると、開校は明治22年、閉校は昭和40年6月30日。神社は集落南部にあり、小高い場所に残骸を確認した。
なお番所の標柱によると、番所は仙台藩が藩境警備のため設置したもので、まず寛永8(1631)年に西峠下へ設置され(薬師森番所)、寛文9(1669)年東峠へ移転(槻平番所)、貞享2(1685)年当地に移されたとのこと。
なお付近には田代キャンプ場があるが、現在利用休止中(写真19)。またさらに東の県道沿いには田代地区の造林記念碑がある(写真11)。
町史によると、当地は木地挽・製炭を生業とする9戸の集落であったとのこと。田代番所の足軽が戊辰戦争ののち藩からの扶持を失い、製炭と木地挽で生計を立てた。のち長沼干拓や元田代を開墾し、農耕にも従事。昭和22年頃5戸。同40年10月、全戸が西原・旭・東町に移転したとのこと。
旭小学校田代分校は、明治期に開設された「田代家庭教育所」が起源。これは集落を訪れる僧侶や巡査、営林署員等によって読み書き計算の教育が行われたもの。なお明治34年からは、宮崎小学校の教員が夏休み期間に交代で出張し教育が行われた。さらに後、報酬の米を出し合い常置の教員が招かれた。昭和7年4月、宮崎小学校の分教場となり、のち旭小学校の所属となる。住民の離村に伴い昭和40年6月閉校。
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