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◆長面(ながつら)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「登米」(昭和21.11)を使用したものである

所在:石巻市長面
地形図:雄勝/登米
形態:海沿いに家屋が集まる
離村の背景:災害
標高:数m
訪問:2023年5

 

 旧河北町の北東部にある。北上(きたかみ)川の河口付近で、追波(おっぱ)湾に面した地区。人家は大字南東部沿岸(字江畑等)に集中。ほか北西部の須賀地区にもある程度集まっており、ほか沿岸や内陸にも点在していた。
 平成23(2011)年3月の東日本大震災により被災。文献『東日本大震災石巻市のあゆみ』より、低地の全域が浸水し、災害危険区域に指定されたことが分かる。

 町誌によると、長面はかつて長津浦・長面浜・長須賀などと呼ばれたという。起源については引用する『村誌』で、「文治四年鎮守府将軍藤原ノ泰衡、源義経ヲ拒ミ謀リシヲ、其ノ家臣等諌メケルニ、終ニ挙ゲラレズシテ退ク者拾余名、当郡雄勝浜三山権現別当ニ由縁アリテ身ヲ寄スルノ地ヲ求メシニ、本村浦海ノ辰巳ニアタリ、山間ニ広キ野谷地アルヲ開墾シ、又ハ漁事ヲ営業トシテ居住セルモノ七戸ナリ。此地ヲ字、滝浜ト謂フ」とある。なお彼らが滝浜の宮下山に北野神社を勧請し、その時の御神体が菅原道真の短冊と笏であったという。
 北野神社(字大入山28番地)は、菅原道真を祭神とする。弘治3(1557)年、宮下山の社殿を改築して長面浜の鎮守とした。元禄2(1689)年、現在の境内に社殿を新築。
 寺院に
龍谷院があり、山号は洞雲山、宗派は曹洞宗。本尊は正観音菩薩。石巻市稲井水沼龍泉院の末寺で、慶長9(1604)年開山。はじめ長石山の山麓にあったが、寛文10(1670)年現在地に移転。
 学校に大川第一小学校長面分校があった。以下はその沿革。

 明治6.4  長面の龍谷院に釜谷小学校開設
 明治20.4  長面尋常小学校となる
 明治34.5  大川尋常高等小学校の分教場となる
 昭和42.3  閉校

 統合時の児童数は101人。
 なお字平六には町の漁業協同組合があった。

 「角川」によると、大字長面は中世より見える地名。桃生郡のうち。近世は桃生郡長面浜。明治22年大川村の大字となる(のち河北町)。明和9(1772)年97戸、文政11(1828)年407人、昭和28年162戸1,028人。
 半漁半農地区で、長面漁港を拠点とする沿岸漁業と長面浦のノリ・カキ等の養殖が盛ん。河口付近の平地は水田化が進み、兼業農家が多い。また追波湾岸の砂浜は長面海水浴場で民宿もあり、石巻方面からの客が多いという。


 現地では漁港の施設や龍谷院の仮本堂・墓地等が復旧しているものの、住宅地は悉く更地になっており、痕跡はほぼ確認できない。また字須賀やその南西部一帯は最近の地形図では水域となっているが、現在は全域が埋め立てられ農地や松林として再生している。
 以下は龍谷院墓地の碑文

 東日本大震災(未曽有の大津波)

 平成二十三年(二〇一一年)三月十一日 午後二時四十六分、三陸沖を震源とする震度七の大地震が発生し、およそ四十分後、當地に十数メートルの大津波が押し寄せた。
 風光明媚な松原海岸の砂浜や、百年以上の松林十万本と海岸線から釜谷地区までの住宅地、農地全てが濁流に一気に呑み込まれた。長面地区百四十五戸の家屋も瓦礫と化し、壊滅状態になり、住民百八名の尊い生命が奪われた。
 生かされた我々は、「地震が起きたら津波の襲来」を教訓に、速やかに高台に避難することが自らの命を守る道である事を後世に伝えたい。
 茲に遺族の賛同のもと、この碑を建立し犠牲となられた諸霊の冥福を祈るものである。

 平成二十五年三月

 そして「震災横死者名」として、98名の名が刻まれている。

 


写真1 住宅地跡(字須賀)

写真2 字江畑・町裏の風景

写真3 長面浦漁港(字平六)

写真4 龍谷院(字三本倉)

写真5 寺院敷地の樹木と石造物群。左より山神・石仏・穐葉山大権現

写真6 県道沿いの石造物群(判読できるものでは、巳待供養塔・庚申塔がある)

写真7 住宅跡(字入)

写真8 隧道。入地区から参道入口への捷径

写真9 神社・参道入口の鳥居(以下字大入山)

写真10 鳥居脇の石造物群。左より若木山・古峯神社・湯殿山・大槻翁の顕彰碑・庚申塔。右は判読できず。なお大槻翁(大槻平六左衛門)は、長面に塩田を開いた功績者。慶応元年歿

写真11 八雲神社

写真12 大杉(おおすぎ)神社

写真13 常磐魂水(ときわたまみず)神社。右は昭忠碑、左後方は五十鈴(いすず)神社

写真14 北野神社

 

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