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◆渕牛(えんぎゅう)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「岩ヶ崎」(昭和22.2)を使用したものである

所在:栗原市花山字本沢渕牛(ほんさわ―)
地形図:花山湖/岩ヶ崎
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約90m(水面は約120m)
訪問:2018年11月

 

 字本沢の南東部、一迫(いちはさま)川左岸にある。現在は花山ダムの人造湖(花山湖)に水没。
 村史によると、ダムについては昭和23年に県による調査が行われ、同27年6月一迫川総合開発工事事務所開設。その後も開発を進めようとする建設省および県と、反対する村・住民との間で交渉は難航したが、同30年6月30日補償交渉妥結。同32年11月16日湛水開始。同33年4月4日竣工式。
 堰堤から近いこともあり、現在は完全に水没している。ただし堰堤とダム管理事務所が字地内に所在。
 以下は、ダム管理事務所付近にある碑より(昭和33年、宮城県知事による)。


 治水は県政の基である  あいつぐ迫川沿岸の水禍にかんがみ 昭和廿三年より基礎調査をつづけ同廿七年に至り 北上川総合開発計画の一環として 水害防止による民生安定並びに下流穀倉地帯の灌漑用水と電力源の確保を主眼とする多目的ダムの築造に着手した
 それから六か年の歳月と十六億七千余万円の経費を投じ その完成を見た
 本ダムは宮城県が建設した最初のもので 特に何らの事故もなく完成を見たのは 地元町村民の協力 施行関係者の努力 さらに関係諸彦の支援のたまものである
 ここに本ダム竣工の喜びを永遠に伝えんとするものである


 また以下は「
花山ダムを讃ふ」と題した碑文。撰文は詩人の白鳥省吾氏による。


秀麗なる栗駒山の麓
太古のまゝに一迫川の流るゝところ
あゝ雄大の花山ダムは
萬頃の沃野を潤ほし洪水を防ぐ
新しき天来の鍵となれり
見よ榮譽ある人工の湖は
小我を沒して
大愛に生けるもの
人類最高の叡智を示して
郷土に永遠の福祉を開く
花山の湖は物言はねども
規律ある現代の美
優しき殉情の母胎
あゝ淙々の瀧ともなりて
蜜の流るゝ郷への愛を歌へり


 なお村内本沢北ノ前(きたのまえ)の「花山農山村交流センター」には水没前のダム湖一帯を摸したジオラマがあり、これには佐藤5・鎌田1の計6戸が再現されている(写真4)。

 さらにここから上流には、かつて「渕牛館」と呼ばれる城塞があった。以下は花山村・宮城県栗駒開発推進委員会設置の説明版より、渕牛館の概説(【 】内の読みは原文ではルビ)。


 渕牛館は陸奥の国の豪族安倍頼時【あべよりとき】の築城で、その子厨川次郎貞任【くりやがわじろうさだとう】(安倍貞任)の居城とされる。往古は華山城【かざんじょう】と称した。頼時と貞任は鬼切部【おにきりべ】(鳴子町鬼首【おにこうべ】)の戦いで、この渕牛館を基地として善戦したという。
 この城は照井【てるい】川(一迫川)の断崖の山城で眺望に富み、大手門、本丸、城兵宿舎、馬屋、見張塁四、外空堀、井戸二ケ所、土堤壁塁、城内通路等を備えていた。
 前九年の役で、貞任は猿飛【さるはね】(花山ダム堰堤)を岩石や丸太で堰き止め、水を湛え守りを固めていた。康平五年(一〇六二年)の夏、源頼義【みなもとよりよし】、義家【よしいえ】軍二千七百余騎は歩兵部隊を伴い裏手の
軍沢 【いくさざわ】より渕牛館を包囲した。貞任軍もよく戦ったが利あらず貞任は一部の手兵と巧に脱出し、衣川(岩手県胆沢郡)に退いたが、城兵は全員戦死して落城したと伝えられる。
 落城後は、源氏の家臣佐藤左エ門公清【きみきよ】の居城となり、応永五年(一三九八年)まで支配し、その後葛西氏、大崎氏の臣となり伊達政宗の時廃城となった。


 なお表記は本字(淵)ではなく、現在公的に用いられている字体に従った(「渕牛館」の解説や「渕牛吊橋」など)。またダムより下流、一迫川の渓谷部分は「牛渕(うしぶち)渓谷」であり、これに倣った「牛渕公園」がある。

 


写真1 ダム堰堤

写真2 碑

写真3 集落跡付近遠景

写真4 ジオラマ(花山農山村交流センターにて)

写真5 渕牛吊橋

写真6 渕牛館跡の一部。西端の東屋

写真7 同。稜線上にて

 

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