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◆島(しま)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「人首」(昭和22.1)を使用したものである

所在:遠野市宮守町下鱒沢(みやもりちょうしもますざわ)
地形図:野手崎/人首 小友/人首
形態:川の蛇行部に家屋が少数集まる
標高:約220m
訪問:2019年11

 

 大字下鱒沢の中部南西寄り、猿ヶ石(さるがいし)川の左岸側にある
 現在はリゾート施設の一部(コテージ型の宿泊施設群)となり集落の雰囲気は残っていないが、事務所付近の「山神宮」(写真6)や、「恵みの森」の中にある古井戸(付近は屋敷跡?)(写真9)は数少ない名残といえる。
 なお施設の敷地は猿ヶ石川の両岸に亘っており県道503号線(写真7)で結ばれているが、県道の須麻古(すまこ)トンネルの由来の記述が当集落にも関係しており、その全文を以下に記す(【 】は原文での振り仮名。必要と判断した部分のみ記載)。


 トンネル名「須麻古」の由来

 延歴(本文ママ)二十一年(八百二年・平安時代初期)、蝦夷【えみし】の酋長の一人であった「去返公嶋子【さるがえしのきみしまこ】」は、坂上田村麻呂(大和朝廷の征夷大将軍)が敢行した「奥州の蝦夷征伐」の難を逃れてこの地へ移り住んだと言われています。
 その後「去返公嶋子」は、雄大な猿ヶ石川の恩恵に預かり(本文ママ)柏木平【かしわぎだいら】一帯に大きな繁栄をもたらしたと言われ、「嶋子」の栄華の名残が「須麻古」という屋号(多田家)になり現在に受け継がれたと言われています。
 また、「去返」は現在の「猿ヶ石」の語源とも言われています。


 現地で会った方の話では、分かるもので2軒。現在のコテージ群内に1軒があったほか、山側に1軒があったという。なお昭和23年の航空写真には4軒の人家が確認できるが、昭和52年のものは1軒のみ(先述の多田家〔=須麻古〕か)。

 


写真1 コテージ群

写真2 屋敷跡付近。スギは往時からのものか

写真3 溜め池(往時からのもの?)

写真4 駐車場より南西を望む(左は事務所。奥は写真2方面。かつては手前から奥に向かって農地が広がっていた)

写真5 案内図。「島地区」とあり、地名が残されている

写真6 山神宮

写真7 県道503号の須麻古トンネル

写真8 炭焼き小屋

写真9 古井戸。看板には「注意 古井戸あり ちかよ…(判読できず)…さい」とある


写真10 写真9付近の平坦地。屋敷跡?

 

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