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◆増沢(ますざわ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「燒石嶽」(昭和21.10)を使用したものである

所在:奥州市衣川区増沢
地形図:石淵ダム/焼石岳
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:多くがダム建設、最終は地辷り
標高:約170〜190m(水面は約180m)
訪問:2018年11

 

 字増沢の北東部、北股川およびその支流の増沢沿いにある。衣川1号ダム(増沢ダム)の建設に伴い離村したが、水没は低地の一部のみ。
 ダムサイトにある碑や解説看板によると、当地は漆器の「秀衡塗」の発祥の地であり、漆器の生産で栄えていたという。
 以下は「増沢部落之碑」の「
望郷」と題した碑文(平成元年11月設置、村長による文)。


 ここに立ち、四季を映す湖面を眺めていると、在りし日の増沢部落の豊かなたたずまいが浮んできます。
 我が、まほろばの里。
高桧能(たかひのう)からの前川・衣の滝からの後川、この二つの川が合流する落合を囲むように、塗師、木地師を始め、民芸に秀でた人々による秀衡塗の工房が続き、商い人の行き来も繁く、木炭を焼き、馬を飼う、往時の七十世帯に及ぶ人々の暮らしがそれまで続いておりました
 時移り、昭和二十二、二十三年のカサリン・
アイオン台風による大洪水を教訓に、岩手県営による村内五か所の防災ダムの第一号として、この地が決まりました。よってダム建設による水没、開拓移転が始まり昭和五十年の地すべり発生による最終移転のやむなきに至り、ついに無人の里となりました。変遷極まりない時代を生き、この地に育くまれた馥郁たる文化の里を偲ぶとき、その心情耐えがたいものがあります。
 このたび、衣川村制施行百周年にあたり、岩手県を始めとする関係各位の理解あるお力添えで■(※1)我がふるさとの永遠■(※2)を念(おも)い碑の建立に至りました。
 青山緑水の心の継承を併せ刻むものです。

※1 「同じく」を意味する記号(〃)のようなものが記されている
※2 濁点のようなものが記されている


 また「増沢部落移転者名」として、佐々木50・高橋5・岩嶋3・佐藤2・石川・及川・大友・小野寺・菊地・福井各1の名が記されている。
 さらに「増澤紀念」とある大正11年の古い碑には、以下のように記されている(主要部分のみの抜萃)。

慶應時代戸數六軒
佐々木〓(※3)十郎 仝彦太郎 仝彦之亟 仝八五郎 仝久助 仝萬太郎

明治貳年
漆器開業者 佐々木〓(※3)十郎
漆器師 沓沢岩松 佐々木與茂吉
秋田県木地師 十関貞吉 佐々木新吉 仝〓(※4)松 仝善〓(※5)エ門 高橋徳之亟 小椋房吉 岩島松太郎

(この後、「大正貳年」に何かの組織の組合長と理事、「大正拾年」に組合長・理事・幹事の名が刻まれているが、ここでは省略)

※3 がんだれに「民」の4画目を除いたもの。「辰」の異体字
※4 刃の下に一。「丑」の異体字
※5 「左」の内側が「ヒ」。「左」の異体字

 現在は北股川の左岸側に何かの施設(写真3)と水田があり、また増沢沿いにもいくらかの耕地が耕作されている。かつて多数の人家があった面影はなく、屋敷跡は1箇所確認したのみであった。

 村史によると、当地には曹洞宗の松山(しょうざん)寺があったとのこと(時代は不明だが、風土記に「往古之寺跡之由当時野山に御座候事」とある)。昭和50年の地辷りで、この寺の石垣が佐々木氏住宅跡の近くに出現している。さらに明治時代には銀山が2箇所あったよう(小字三沢および高堂)。

 


写真1 堰堤。右中央にダム湖

写真2 碑。新しいもの(左)は刷毛とへらを摸している

写真3 何かの施設

写真4 水田

写真5 「衣の滝」の案内

写真6 屋敷跡

写真7 畑

写真8 屋敷跡?

写真9 増沢に架かる橋

写真10 増沢右岸の農地

 

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