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◆本銅(ほんどう)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「大川」(昭和22.2)を使用したものである

在:岩泉町袰綿(ほろわた)字本銅
地形図:門/門 陸中大川/大川
形態:谷沿い
標高:約460m(新版地形図)
訪問:2019年11月

 

 大字袰綿の南部、本銅ノ沢(小本(おもと)川支流)とその支流沿いにある。なお字本銅の区域内には小本川との合流部に本銅口地区があるが、ここでは上流部の「本銅」について扱う。
 旧版地形図と最近の地形図では地名表記の位置が異なるが、訪問は後者のみ(前者にも足を踏み入れたが、途中で引き返した)。
 地形図に記されている神社の記号の場所には、社と数基の石塔が置かれている(写真1)。周囲は水を用いた何かの設備の跡で、その遺構が見られる(写真2・3)。集落には廃屋が1軒と屋敷跡1箇所。ほか墓地(写真6)と何かを祀った小さな境内(写真7)を確認。
 なお当地にはかつて本銅鉱山(後述)が存在。地名の由来でもあるが、鉱山集落は形成されなかったと思われる。

 資料『岩泉地方史』によると、本銅鉱山は発見時期は不明だが、天正年間(1573-93)には稼働していたといわれる。享保6(1716)年頃には活況を見せていたが、南部藩の直営となり「舟木御山」と称した。しかし政策変更として鉱山の役員や労働者のほとんどを尾去沢(おさりざわ)鉱山へ移し、その後当地は「本銅みやま」と称した(「本銅」の名の起こり)。間もなくして休山。近代以降の沿革は以下のとおり。

 明治37  盛岡の鈴木某氏が経営開始。廃鉱を処理し当時の椿鉱山に売却したが、交通不便のため採算割れし休山
 大正元  東亜鉱業会社の経営となる。金・銀・銅を生産し日立製錬所に売却。質を認められ、本銅鉱山の名は全国に知られた
 昭和6  和賀郡横川目村の高橋氏の所有となる。のち花巻市の菊池氏の所有となる
 昭和7  東京の小長井氏の所有となる。専門家の調査により将来性が見込まれ自家製錬の計画を立てたが、後援者の急死に伴い頓挫
 昭和11  小長井氏の子息が伯父2人とともに小規模経営を開始。昭和13年には有望な鉱脈を発見。岩手鉱山株式会社を設立し、選鉱場の建設や採鉱の機械化を図り、増産に向かった
 昭和23  台風による被害のため休止

 


写真1 社と石塔群。右より「出雲大社/天上安全」「出雲大社/大日如来/牛馬安全/明治二十三年/三月十六日」とある

写真2 遺構

写真3 遺構

写真4 廃屋

写真5 倒潰家屋

写真6 墓地

写真7 鳥居と祠

写真8 境内の石塔群。右より「大峯神社/大正拾年九月拾五日/祀所立花女」「摩利支天王/大正十年/九月十五日」「藥師/明治廿九年/九月十五日」「出…(判読できず)」「〓龜(〓は雨かんむりに鶴)/明治廿九年/三月…」とある

 

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