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◆高見(たかみ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「農屋」(昭和34.10)を使用したものである

在:新ひだか町静内高見
地形図:セタウシ山/農屋
異表記:奥高見
形態:川沿いに家屋が散在する
標高:約210m(水面は約210m)
訪問:2014年5

 

 旧静内町の部、静内川沿いにある。現在は高見ダムの人造湖(高見湖)に多くが水没。
 町史によると、開拓からダム建設までの歴史は以下のとおり。

 最初の開拓は昭和5年。前年にアイヌへの給与地(当時の名称「旧土人給与地」)として解放され、51戸に割り当てられた(「角川」によると、開拓に当たったのは45戸)。20日間をかけ下流の双川(ふたかわ)より道をつけ、小豆・ジャガイモ・ソバを試験的に栽培。秋の稔りは良好であったが、昭和6年の満洲事変や、僻地ゆえの輸送の困難さから入地を断念。再び国有地に帰した。
 昭和22年5月、戦後の緊急開拓により満洲からの引揚者25戸(※1)が入植。団長は名児耶氏。満足な食事や開拓道具もなかったが、努力の末6月には小麦・雑穀・豆類・ジャガイモ・蔬菜等を作付。昭和25年には薄荷の栽培を開始し、翌26年には共同の薄荷蒸溜釜を設置し初めて薄荷油を生産。以下は入植から10年間の
転入戸数および戸口の推移。

  入植時 昭和22 昭和23 昭和24 昭和25 昭和26 昭和27 昭和28 昭和29 昭和30 昭和31 昭和32
転入 20(※2) 3 7 4 0 0 0 1 1 0 0 0
戸数 20 23 30 34 34 26 25 26 27 26 26 26
人口 66 76 118 143 156 132 137 140 139 141 138 141

 昭和35、6年頃より、離農が顕著となる。交通の便の悪さや、土壌・気候が営農に適していなかったことが要因。昭和39年1月には全戸離村に至った。
 昭和53年高見ダムが完成し、湛水により集落跡地は大部分が水没。周辺環境整備事業として、高見青少年研修広場・高見湖畔広場が設けられた。

※1 後出の推移の表と内容に齟齬があるが、本文の記述ママ。入植前の脱落者の記述も特にない。「角川」では20戸としている
※2 ※1の相違箇所

 以下は学校の沿革。

(小学校)
 昭和22.6.8  開校。「青空教室」と称し、有志識者による屋外での授業が開始。児童16名(※3)
 昭和22.12.15  仮校舎完成
 昭和23.4.1  御園(みその)小学校高見分校となる
 昭和25.11.3  校舎完成
 昭和26.8.1  独立。高見小学校となる

 昭和40.3.31

 廃校

※3 校名の明確な記述はない。ただし本文中の『日高教育史(戦後編)』からの引用では、「遂に昭和二十二年六月八日付で御園小学校高見分校は発足した」とある

(中学校)
 昭和23  御園中学校高見分校開校。小学校に併置
 昭和30  独立。高見中学校となる
 昭和32  校舎完成

 昭和40.3.31

 廃校


 なお字高見は昭和9年からの行政字。もとは静内町大字農家(のや)村の一部(角川)。

 現在は集落を通る車道(道道111号)が開通しているものの、手前の静内ダムにはゲートが設けられており一般の車輛は進入できない。高見ダムまでは約12km。
 集落跡付近に到達すると、路傍には「高見開拓之碑」(写真3)や「高見開拓図」(写真4)があり、往時の集落を垣間見ることができる。以下は碑文。


昭和二十二年日高山峡僻遠のこの地に烈々たる開拓魂をいだきて入団せし一団あり筆舌に尽くせぬ苦難と闘い理想郷建設に邁進せし十七星霜。営農ままならず昭和三十九年集団離農の止むなきに至る。鳴々(※4)老若男女百余名が徒手空拳、血と汗と涙で拓きし三百余ヘクタール。電源開発のため湖底に沈み静内町の礎となる。秀峰ペテカリ岳を仰ぎ、シベチャリ川の流れを想い、わが故郷、高見開拓地を偲びここにこれを建立する。

※4 原文ママ。町史にも碑文の掲載があるが、「嗚呼」としている


 また開拓の碑の脇にある「高見開拓者」の碑には、名児耶(初代組合長)・名児耶(初代学校長)・栗本・小寺・ 山岡・千葉・野宮・中城・松田・大内・田中・栗本・名児耶・田中・剣持・中野・水木・林・関・山田・名児耶・ 伊藤・大野・大野・内山・小寺の各氏の名が刻まれている。
 さらに「高見開拓図」からは集落の中心部はペンケベツ沢川との合流部付近(現在の辺渓別大橋から湖を遠望した辺り)であったことや、中心付近には学校や営林署、教員住宅、神社などがあったことが窺える。「入植戸数 当初32戸 最終24戸」「学校教員住宅3戸」「営林署2戸」「組合事務所倉庫2戸」とのこと。
 訪問時はやや水位が低かったようで、水際では複数の遺構が確認できた。完全に水没を免れた宅地も少なくはないが、その痕跡はほとんど確認できず。青少年研修広場付近で僅かに磁器とビール壜といった生活の痕跡が見られた程度(写真17)。ちなみに最近の地図で記されている建物の記号は、いずれもこの施設内の便所の棟(写真18・19)。

 


写真1 高見ダム。建物はダム管理所

写真2 高見発電所鳥瞰図

写真3 左・中央ともに「高見開拓之碑」、右「高見開拓者」の碑

写真4 「高見開拓図」

写真5 遺構

写真6 遺構(奥)と管(手前)

写真7 遺構

写真8 同

写真9 同

写真10 同

写真11 同

写真12 同。右側は往時の道か

写真13 遺構

写真14 道?

写真15 標識。直進高見湖畔広場、右折高見青少年研修広場

写真16 研修広場にて

写真17 同。壜と埋もれた磁器

写真18 同。便所

写真19 同

写真20 高見林道

写真21 屋敷跡?

写真22 高見橋

 

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