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◆絹丘(きぬおか)



※ 明色部
※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「ニセコ」(昭和45.3)を加工し使用したものである

在:ニセコ町絹丘
地形図:ニセコ/ニセコ 昆布岳/ニセコ
形態:
谷沿いに家屋が散在する
標高:200m前後
訪問:2014年5

 

 町の南部、ルベシベ川左岸の山中にある
 
町史および町百年史によると、明治時代に赤松農場・福島団体・宮城団体が入植したことが当地の興りで、最盛期は80戸が農業や伐採に従事していたとのこと。以下それぞれの団体について大まかに述べる。

・赤松農場
 明治36年7月、茨城県結城郡豊田村【のち石下町、現・常総市】の赤松氏・中川氏が土地の貸下げを受け開墾を開始。明治43年頃には小作人も27戸となり、同年2月には土地を付与される。好況を見せるも放漫な経営が災いし、大正元年8月には原氏に売却。大正3年2月には中山氏に転売されしばらく「中山農場」と呼ばれたが、経営は軌道に乗らず同15年8月銀行の担保に流れ農場は消滅。昭和3年施行の自作農創設維持法により小作人に解放された。

・福島団体
 (旧)明治41年、郡司氏を団長とした福島県出身者32戸が入植。炭焼きや養蚕を行ったが土地や気候が農業に適していなかったため、大正15年頃には全戸が離村。
 (新)明治44年、柳沼氏を団長とした福島県出身者17戸が入植。やはり営農が苦しく、大正末期には無人となった。

・宮城団体
 明治45年、佐藤氏ほか20戸が入植。炭焼きをしながら菜種・エンドウ等を栽培したが、冷害や交通の便の悪さにより大正10年全戸が離村。

 なお昭和34年頃の絹丘には14戸が居住、うち旧福島団体および旧宮城団体の区域での居住者は1戸で、ほとんどが旧赤松農場に暮らしていた。町史が刊行された当時(昭和57)では、既に無住となっていることが読み取れる。
 また「角川」によると字絹丘は昭和12年からの行政字。もとは狩太村の一部、ルベシベ。地名は、かつて養蚕が盛んであったことによるという。

 訪問は旧赤松農場の区域のみ。僅かな遺構が見られるが、屋敷跡はほとんど特定できず。

 


写真1 絹丘橋

写真2 集落風景

写真3 屋敷跡?

写真4 川と平坦地

写真5 何かの遺構

写真6 鉱山会社の施設の一部

写真7 平坦地

写真8 何かの遺構

 

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