◆滝里(たきさと)
※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「富良野」(昭和36.8)を使用したものである
所在:芦別市滝里町(たきさとちょう) 地形図:野花南/富良野 島ノ下/富良野
異表記:滝の上(旧称)・ポンモシリ(奔茂尻)(旧字名)
形態:川沿いに家屋が散在する
離村の背景:ダム建設
標高:約140〜160m(水面は約150m)
訪問:2013年6月
市の東部、空知(そらち)川沿いにある。現在は滝里ダムの人造湖(滝里湖)にほぼ水没している。
以下は市史より集落に関する記述
・地名
芦別開村以前は、空知大滝の上に位置することから「滝の上」と呼んだ。明治33年芦別が歌志内村から独立した際、字名を「ポンモシリ」とした。大正2年漢字表記で「奔茂尻」とし、昭和14年「滝里」と改称。
・開拓
明治36年、富山県出身の高田氏とその長男の2名が入植。それぞれいったん他の地区に居住した後、滝里に入植した。その後の入植者も富山県の出身者が最多で、次いで福島・宮城等の東北出身者が多い。なお芦別地方で多く見られた団体入植はなかった。
・交通
以下は主な変遷。
明治36-37 |
野花南(のかなん)‐富良野間の人馬道が開通。たいへんな悪路であった |
明治38.9 |
滝の上駅逓所設置 |
大正2.11 |
根室本線開通、奔茂尻駅(のちの滝里駅)開業。開発の端緒となり移住者も増加 |
大正4.3 |
鉄道開通により駅逓所廃止 |
昭和8.1.2 |
滝里大橋(旧)完成 |
昭和13 |
右岸に自動車道が開通 |
昭和40 |
滝川‐富良野間の鋪装工事完了 |
・産業
農業…開拓当時の主な農産物は、麦類・豆類・ジャガイモ・菜種など。明治44年に水稲を試作。不作が続くが収穫は漸増。大正7年灌漑組合が結成され、本格的な栽培へ取り組む。戦後は甜菜や亜麻の栽培が盛んになり、昭和25〜30年頃が生産のピーク。また稲作も伸びたが、昭和40年代の減反政策により休耕が進む。これにより集団転作組合が組織され、豆類・麦類・甜菜・蔬菜等の栽培が進み、さらに昭和47年メロン生産組合が結成。のち滝里メロンの名が知られるようになる。
林業…明治30年代中頃、三井木工所(当時)が枕木や建材の製造のため、また富士製紙(当時)が製紙のため、盛んに森林の伐採を行っていた。滝里の木材は良質かつ豊富で、斜面が急なため搬出にも便利であった。入植者たちは冬の農閑期に造材に出稼ぎし、伐採や運搬に従事。これは大型車輛による運搬や重機による作業が主流となる昭和40年代後半まで続けられた。
・学校の沿革
(小学校)
明治38 |
5月滝の上簡易教育所設置。7月授業開始 |
明治39.11 |
空知川滝の上簡易教育所として正式に認可 |
明治43 |
校舎移転 |
大正2.4 |
奔茂尻尋常小学校となる |
大正7.2 |
校舎移転 |
昭和16 |
国民学校となる(※1) |
昭和18 |
高等科設置 |
昭和22 |
小学校となる(※1) |
昭和61.7.28 |
閉校式挙行 |
※1 奔茂尻尋常小学校から滝里小学校までの経緯は、文面から読み取れず
(中学校)
昭和22.5 |
滝里中学校開校。滝里小学校に併置 |
昭和24 |
校舎完成 |
昭和55.3 |
閉校。新しく発足した啓成中学校に統合 |
・滝里ダム
石狩川の治水のため、昭和47年頃より北海道開発局石狩川開発建設部による現地の予備調査が開始された。50年7月、ダム建設適地である旨の結果を市に報告。これにより建設計画が一挙に表面化。住民は一貫して反対の姿勢をとる。しかし住民も過疎・高齢化や農業の不振を抱えていたため、また他のダムの視察において工事が中止になった事例がなかったこともあり、土地の買収・工事・生活再建等に条件をつけることでダム建設に大筋に合意。以降補償問題へと焦点が移っていった。昭和60年工事開始。同61年には個別の補償交渉がほぼ完了。
水没者の移住先として、昭和60年11月上芦別町に「ひぐらし団地」を造成。同61年8月30日、閉町式(解散式)挙行。同62年までに112世帯318人(市内へ68世帯、市外へ44世帯)(※2)が滝里の地を去った。
※2 ただし記念公園の碑に記載に記載されているものは118世帯(滝里町108・泉町10)
なお神社に滝里神社・戸隠神社、寺院に安照寺(浄土真宗)があった。各神社は湖畔に移転、寺院は昭和61年8月廃止。
現在は湖畔にキャンプ場が営業中。ここから正面に湖を望んだ付近が集落の中心部で、学校や滝里駅があった場所。またキャンプ場から国道を挟んだ山側は滝里記念公園になっており、「望郷之碑」(写真3)や移設された神社(写真4)や学校門柱(写真6)など数多くのゆかりの物が移設され残存している。中流部には「滝里墓地」(写真11)があるが、往時の場所から移転したものと思われる。上流の一部は水没を免れているが、遺構等往時を偲ぶものはない。林の中に残る段差は、往時の農地の区劃か。
なお国道に架かる橋の名称が、野花南トンネル以東下流から4基が「帰郷(ききょう)橋」「立寄(たちより)橋」「望郷(ぼうきょう)橋」「思い出(おもいで)橋」と過去を偲ぶもの、次の5基が「湖映(こえい)橋」「秋紅(しゅうこう)橋」「萌黄(もえぎ)橋」「緑葉(りょくよう)橋」「景勝(けいしょう)橋」と現在の自然を賞するものとなっている。
以下は公園にある碑(平成8年、芦別滝里会による)の全文。
私達の郷土滝里町は明治三十六年四月富山県人高田芳太郎ほか二名が移住開墾に従事され、明治三十八年四月管設(原文ママ)駅逓が設置された。その後本州各県からの入植者によって開拓時の厳しい自然と闘いながら幾多の苦難に耐え郷土発展の基礎が築かれた。明治三十八年学校が開校し、荒涼とした開拓地に住む人々の心の支えとしてあいついで神社、寺院が設置された。大正二年鉄道が開通し各営業所ができ市街地が形成された。最盛期には戸数百八十戸人口九四一人の郷土となった。
この地の産業は農業と林業で農業は水稲が主で明治四十四年試作され以降しだいに造田された。耕地面積は二七四町歩で近年農業の近代化が進められた。ことに芦別メロンの発祥の地として生産がなされていた。山林は官有林三八〇〇町歩と広大で造林事業が盛んであった。昭和二十年芦別営林署滝里担当区事務所が設置され植林がなされた。
昭和五十一年北海道開発局石狩川開発建設部よりダム建設計画が発表され調査を経て昭和六十一年一月補償基準調印の運びとなりこの地も湖底に沈むことになった。
この碑は八十余年の滝里町の歴史を保存継承した先人の労苦に感謝しあわせてこの地を去る住民の新生活に幸多かれと祈るものである。
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