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◆上久著呂(かみくちょろ)



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「弟子屈」(昭和48.5)を使用したものである

在:標茶町クチョロ原野北44線ほか?
地形図:奥久著呂/弟子屈
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約160
m
訪問:2013年6月

 

 町の西部、久著呂川沿いにある
 
町史によると、久著呂地域への入植は明治36年より(※)。当時は畑作が中心であったが、大正に入ると馬の生産が盛んになり畑作との兼業が定着。また昭和7、8年頃より一部で酪農が始まり、昭和40年代前半までこれらの混合農業が続く。のち大規模酪農地帯に変貌した。入植当時は道路事情が悪く、川での舟運を利用していたといわれる。昭和3年殖民軌道久著呂線が着工され、同5年中久著呂までの営業を開始。昭和8年度には上久著呂まで延長。久著呂地区の生産物や食料・生活物資等が運ばれるようになり、輸送事情が改善される。昭和40年代に入ると道路が整備され、自動車が主となったため昭和40年廃止された。また上久著呂小学校は、昭和3年9月1日塘路(とうろ)小学校所属上久著呂特別教授場として開校。昭和44年3月31日閉校。
 集落の規模はそれほど大きくなく、現地には家屋が数棟残る程度。

※ 下久著呂・中久著呂・上久著呂・奥久著呂。なお新久著呂は戦後の開拓

 


写真1 廃屋

写真2 道と家屋

写真3 牧草地

 

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