戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ

 

◆阿寒(あかん)鉱山



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「上足寄」(昭和45.11)を使用したものである

所在:足寄町茂足寄(もあしょろ)
地形図:イユダニヌプリ山/上足寄
形態:山中に家屋や施設が多数集まる
離村の背景:産業の衰退
標高:約580m
訪問:2013年6月

 

 字茂足寄の中東部、白水(しらみず)川の支流(白水小川)流域にある。
 業績不振などにより数度の操業停止を経たが、最終的には採掘が
事業として成り立たなくなり消滅した(原油精製過程で生産される硫黄が主流となっていった)。また昭和32年頃より鉱害問題が発生し、現在はその防止工事が施されたため往時の面影はほとんどない。
 以下は『足寄町百年史』より鉱山の主な沿革。

(経営主体と採掘状況)
 明治〜  硫黄の採掘が何度か行われたが、本格的なものにはならず
 昭和13  日本特殊鉱業株式会社、採掘権取得
 昭和16  採掘の準備が開始されるが、戦時中の硫黄鉱業整備令により操業に至らず
 昭和27.10  阿寒硫黄鉱業所にて硫黄採掘再開
 昭和30.6  日本特殊鉱業株式会社、阿寒硫黄鉱業株式会社と改称
 昭和31  採鉱量最多(約2万3000トン)
 昭和37.5.30  操業停止
 昭和38  4月日本特殊硫黄株式会社が権利を継承。11月操業再開
 昭和39.10  操業停止
 昭和41.10

 旭硫黄により操業再開。間もなく停止

 昭和45.7  田島鉱業、操業再開に向け準備を開始

 昭和46.6

 田島鉱業の親会社が倒産し、再開できず

 昭和47  道東硫黄株式会社が権利を継承
 昭和54.1  鉱業権放棄

(鉱害の経緯)
 昭和32  下流において農地から硫黄臭がするといった公害問題が発生。精錬所の鉱滓に疑惑が持たれる
 昭和35  汚染源は別の場所であるとされたが、摩擦を避けるため見舞金により妥結
 昭和37〜  この間も被害は続き、住民と経営側の交渉が図られる。しかし経営者が頻繁に入れ替わっているため進捗なし
 昭和45.10  田島鉱業、残滓処理施設を設営設置
 昭和46.1  町と田島鉱業の間で鉱害防止協定を締結(同社の撤退により進展なし)
 昭和51  通産省、防災処置を道東硫黄に命令。計画書を提出するも、資金不足のため工事は行われず
 昭和57  道議会において、鉱山跡による環境悪化が取り上げられる
 昭和58.7

 道の委託を受けた金属工業事業団により、鉱害防止工事開始

 昭和63.10  工事完了。鉱滓流出防止の堰堤の建設・平坦部の覆土・芝生の植栽などが行われた

(小学校沿革)
 昭和30.12.1  茂足寄小学校阿寒硫黄鉱山分校開校
 昭和33.7.1  阿寒硫黄鉱山小学校となる
 昭和44.4.1  茂足寄小学校阿寒硫黄鉱山分となる
 昭和43.3.31  閉校

 同地は事務所や精錬所を中心に、住宅・合宿所・鉱友会館・診療所などが設けられ、約400人の従業員が暮らしていたという。

 先述の大規模な工事のため、集落跡一帯は整地された草原が広がり、一部には針葉樹の植林がなされている。しかし山林の中では何かの鉱山設備や電柱等、僅かながら遺構も残されている。

 


写真1 整地された集落跡

写真2 同

写真3 平地

写真4 何かの設備の一部

写真5 瀬戸物のかけら

写真6 何かの管

写真7 遺構

写真8 何かの設備の一部

写真9 何かの槽

写真10 電柱

写真11 何かの柱

写真12 社?

 

戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ