◆知茶布(ちちゃっぷ)

※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「阿寒」(昭和50.10)を使用したものである
所在:釧路市阿寒町知茶布(あかんちょう―)20線・知茶布19線ほか
地形図:上庶路/阿寒
形態:川沿いに家屋が散在する
標高:約80m
訪問:2013年6月
町の南西部、知茶布川沿いにある。
「角川」によると、字知茶布は昭和13年からの行政字。もとは阿寒村大字下辛村の一部。明治期に農業地域として開拓された。戦後は知茶布炭礦も開坑。閉山や離農などで衰退した。大正13年知茶布特別教授場が開設。昭和61年131戸296人。
現在でも管理された家屋が残り、人が度々訪れていることが窺える。また峠の道脇にはトンネル工事を顕彰する碑(写真。平成10年、町長による文)が置かれており、集落の歴史も記されている。以下はその全文。
明治三十年ころより温暖の富山・静岡県などから北辺厳冬のこの地に第二の理想郷を求め、大樹海に三十三戸の入植。開拓は満身創痍、精魂苦闘する。生活道路も地理的条件に阻まれ、けもの道を辿り苦難を重ねる。志半ばにして次々と離散するは断腸の思いなり。
昭和二十三年、ついに残存八戸、この地の存亡を憂い思案熟慮の末、八幡鉄栄を先頭に十四名の青年が決起し、隧道掘削の大難工事に挑む。血と汗の苦闘二年有余、昭和二十五年十月、八十五米の悲願を貫く。
しかし、戦後の産業経済の著しい変革はこの地の生活を困難にし、遂に永住を断念、昭和三十九年、全戸がこの地を後にする。
そして幾歳月、昭和の青の洞門*シ残の隧道も老朽化し、撤去するに至るが、青年たちの偉業を未来永劫称え、語り継がれることを念じ、ここに記念碑を建立する。
集落に入ってすぐに引き返してしまったが、後で知るところでは開拓の苦労を綴った私設の「先祖開拓勞苦之地」の碑が置かれているよう。
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