「大人になるということ」

 私は今年30歳を迎える。20歳になる頃、私は大人になるということを経済的な生活の自立だと考えていた。しかし、私はこの20代を生きて全く違うことを学んだのだ。人は経済的な自立を果たしても大人にはなれないのだ、ということを。大学を卒業し社会に出た頃の私は、経済的な自立を目指し親の世話にならないように心がけた。誰でも通る自立への第一歩だろう。しかし、社会に出て親元離れて生活をし、外から両親を見て気付いたのだ。いつまでたっても親は子どものことを心配し支援するものである。ならば親は、経済的な自立よりももっと内面的な成長を見て子どもを大人になったと認め始めるのではないか。実は、私は一度仕事で挫折を経験している。それも結婚一ヶ月前という時期に仕事を失ったのだ。私の大人になったというプライドは崩れた。情けない自分を受け入れるしかなかった。もう一度自分を見つめ直すには充分すぎる失敗だった。しかし一ヵ月後、両家の親の理解のもとで結婚が許され、仕事もない自分が一家の主として大きな責任を担うことになった。大人だという自身を失った私は、全く違う出発点から大人にならなければならなかったのだ。ありのままの自分を受け入れて、今出来る最善に力を注ぐことしかできない。今の自分にあきらめてはいけない。そう思って、必死に仕事を探しながら出来る事は炊事洗濯何でもやった。少しでも仕事をしている妻の支えになりたかったのだ。あの頃の自分を妻に夫として認めてもらえるなら、一つ学んだことがある。大人になるとは人のために何かが出来るようになるということではないか。周りのことを考え、周りのために自分を犠牲に出来るようになるということではないか。もちろん、経済的な自立も忘れることは出来ないが。経済的にも支える側になれた今、また子を持つ親になった今、大人になるとは経済的な生活の自立だけでは果たせないと改めて実感するのだ。大人となっていく時、人は支えられる側から支える側に回っていくものなのだと思う。自らの生活を支え、家族を支え、社会を支える意識を持つ者になるのだと思う。『愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛は決して絶えることがない。(聖書)』30歳を迎える今、私はこの愛をもって支える側に回ることを、大人として生きていくことを、選んでいきたい。