「親が子にしてやれること」

 時には牧師夫婦でも激しい喧嘩をする。それも私たち夫婦は、お互いに中途半端に終える気がない。些細な意見の違いでも、納得するまで、寝ずに議論し続けることもある。次の日まで怒りやわだかまりを持ち越さないようにしたいからだ。結婚七年目を歩む今でもそれは変わらない。二人が一つの夫婦になるために違いや問題を二人で乗り越えることを大切にしたいと思うからだ。

ある時、とても印象的な事があった。息子がまだ二歳にも満たない頃だったか。私たちの喧嘩を見た息子が、突然私たちの間を行ったり来たりしながら泣き崩れたのだ。私たちはとりあえず、喧嘩を中断し、息子を抱き上げた。それでも泣き続ける息子に、妻と二人で「喧嘩したらあかんか、ごめんごめん」と謝ったのだが、なかなか泣き止まない。小さいながらも彼は、私たちの心が離れていることを痛烈に感じたのだろう。息子にとっては、私たち二人のうちどちらかを選ぶわけにもいかないのだ。辛くて仕方のない様子であった。その後、私たちが仲直りをして仲良くし始めると、息子は泣き止み安心して甘え始めた。私たちの様子をしっかり見ているのだ。

この一件から、私は、子どもは親が夫婦として一つであるかどうか、いつも見ているものなのだと思うようになった。多分、どの家庭でも同じだろう。

 私は結婚カウンセリングの時に、喧嘩はしたらいいと話す。お互いに別の人間なのだから、違う面があって当然だ。時にその違いをぶつけ合って喧嘩になっても仕方がないだろう。理解し合うためだ。

聖書は結婚について「人は父母を離れ、二人は一体となる」と教えている。結婚生活は一体となるための道のりだと言えるのだと思う。そして、一生をかけて愛し合い一つとなっていく両親の姿を見ることが出来るなら、子どもは愛することを学びながら育つのではないだろうか。

 喧嘩に子どもは翻弄される。怒気や罵声が激しくなればなるほど翻弄される。だから、子どもの前で喧嘩をしない知恵が必要だ。しかし、それと同時にもっと大切なのは、喧嘩をしても、それでも最終的に相手を赦し受け入れ、愛することを選び取る両親の姿を見せることではないか。一体となることに努力する姿を子どもに見せてやれるなら、親が子どもにしてやれる最も大切なことの一つを果たせるのだと言えるのではないか。