ヤコブの手紙講解メッセージ(105720
                   「忍耐と祈り、そして幸せ」


 兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。・・・主が来られる時が迫っているからです。ヤコブ578

 「忍耐する」という決断を誰かがしたとき、その決断を知らされた者は誤解してはいけません。忍耐するという決断は、決して消極的なものではないのです。今日の7節のみことばを読めば、それは明らかです。「農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。」農夫にとって、この忍耐は必要不可欠なものであり、極めて積極的な行為なのです。

 しかし、私たちは、忍耐するという決断を聞くとき、何か消極的な、何も行動を起こさない、問題解決から逃げてしまったようなイメージを持ってしまいます。だいたいどうしてそのように感じるのでしょうか?

 実は、それは、世の中の感覚なのです。神様を知らない中で染み付いてきた感覚なのです。忍耐を積極的な行為として行ってこなかった経験が、そう思わせているのです。

 今までの歩みを思い浮かべて下さい。人との関係で悩む時、黙って我慢するしかなかった時がありました。悔しい思いを押し殺して問題を大きくしたくないと黙ったことがありました。だいたい、私たちが経験してきた黙って忍耐という経験は人間関係に多いと思うのです。消極的な思いになるから最後は黙って我慢する選択しかないとなるわけです。

 しかし、今、私たちは、父なる神様が自分のことを愛して下さっていると信じています。そして、その神様が私たちの生活に働いて下さるとはっきりと約束されていることも知っているのです。だから、今、八方ふさがりだったとしても、万事休すだと切羽詰っても、私たちには希望があります。積極的に委ね、積極的に忍耐を選択できるだけの助け主を知っているのです。

 農夫は、春の雨と秋の雨が、大地の尊い恵みを豊かに実らせてくれることを知っていたのです。だから希望を持って忍耐したのです。
 私たちは、神様の助けが、すべてを良き方向へと導いて下さることを知っています。だから同じように希望を持って忍耐できるのではないでしょうか?

 またそれだけではありません。
 私たちは社会の理不尽さや、悪の栄えるのを見て、どうしてなのかと嘆くことがあります。また聖書の時代のように命まで取られることはないかもしれませんが、様々なレベルで迫害を受けることがあります。このようなことを思うとき、私たちは積極的な行為としての忍耐が必要なのだと思わずにはいられません。

 なぜなら、裁くお方はお一人だけです。9節「兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。」とある通りです。そして、8節後半に記されているように、キリストは再びこの地上に来て下さると約束されているからです。すべてを正すために、またキリストを信じ待ち望む者を救い出すために来て下さるのです。一時的な助けではなく、完全にこの世のすべてを裁き、そして救う時が来ると言うのです。

 たとえ、私たちの思い通りの豊かさや祝福を手に入れることがなかったとしても、また、もっとひどく、今抱えている苦しみから解放されなくても、預言者たちを思い出せ!ヨブを思い出せ!彼らの忍耐と信仰を心に留よと聖書は私たちに迫っているのです。

どうしても私たちは自分の思いや感覚で、神様の働きを推し量ってしまいますが、決して見極めることなどできないほどに、主の業は私たちの理解を超えています。しかし、これだけははっきり言えます。神様の御業は誠実で憐れみに富んでいるということです。(1011節)これらのことを心に留めて、キリストが再び来られる時を待ち望みつつ歩んでいきましょう。
 そして再臨のときを迎えたならば、もはや涙することもなくなり、私たちが今まで流していた涙も、神様ご自身によってことごとく拭い取っていただけるのです。

 さて、ここで、一つの注意が示されています。「誓ってはならない」というものです。これは別に愛を誓い合うといった誓いのことではなく、不用意に、またみだりに神の名を出して、自分の言葉を権威付けてしまうことを止めなさいといっているのです。
 この当時は迫害下にあって、ギリギリの精神状態を保とうとする中で、どうしても神様の名を語り世を裁いたり、人を裁いたり、国を裁いたりすることが多かったのでしょう。またクリスチャン同士でも同じことをしていたのでしょう。

 思い出すのは、クオヴァディスの中で、一人の指導者が迫害に遭い処刑されようとする者たちを前に、「今は裁きの時だ」と叫んだのに対して、パウロが「いやそうではない。今は恵みの時、救いの時だ。」と語りました。これは小説の一場面ですが、しかし、「誓ってはならない」と警告された当時の信仰状態をよく表していると思うのです。

 私たちはどちらを選びますか?
 というよりも、「はい」は「はい」「いいえ」は「いいえ」と答えられればいいのです。

 13節から「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、讃美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は・・・祈ってもらいなさい。」
 信仰に基づく祈りの力強さが1718節から記されています。忍耐を続けていく中で、一番必要なものは「祈り」だと誰もが頭では分かっていると思います。きっと誰も反対しないでしょう。

そこで体験が必要です。皆さん祈りましょう。苦しい中にあって祈りがどれほど大きな力になるのか祈って体験しましょう。それが聖書を通し奨められているからです。

エリヤの祈りは、わたしたちと同じ人間だけど、本当に同じなのか?と感じてしまうほど力強いものでした。私たちに出来るだろうか??と感じてしまう私たちは、体験していくしかないのです。
 忍耐の中で祈り、主を確かめ信仰を固く守り続けるとき、必ず神様は恵み豊かに報いて下さるはずです。ここに、信仰者の幸せがあるのです。

この幸せを味わった者は、1920節(読む)。
 当時のクリスチャンたちは迫害下にいました。迫害下にあって苦しい中でも忍耐の限りを尽くし、祈りをもって神様の働きに参加していました。

1920節は私たちへのチャレンジとして受け取りましょう。(1920節読む)
 チャレンジを受け取っていただきたいと思います。 罪を覆う役割と力が注がれて用いられますように。