ヤコブの手紙講解メッセージ(9516
         「世の富よりもなお(ひとごとではありません)」

 えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真のようになる。
                            イザヤ58:10


 今日の箇所を読んで、自分はそんなにお金持ちではないから自分とはまったく関係ない箇所だと判断してしまったら、それは大きな間違いです。今回(3月12日〜20日)フィリピンに再び行くことができ、それもスラムに足を踏み入れることのできた経験から、私たちは貧困の極みを知らないと言えると思います。また日本とフィリピンは違う国だと言う方々もおられるとは思いますが、この世界を造られた神様にとって国の違いは関係がなく、地球全体という広い規模でキリスト者のあり方を示していると思うのです。

 今、水フォーラムが開かれていますが、そこに、11歳のカナダ人の少年が招待されています。彼がクリスチャンかどうかは分かりません。ただ良い例だと思うのです。この少年は5年間、自分の小遣い(家でお手伝いするたびにもらっていたお金)を寄付して、アフリカなどの多くの場所に、きれいな水を確保できる井戸を作ろうと働きかけてきました。はっきり覚えていませんが、現在一つや二つではない数百の井戸を造り上げています。きれいな水がなくて病気を発病し多くの赤ちゃんや子どもが死んでいる現実を知ったとき、この少年は小遣いを寄付し始めました。この少年の小遣いだけでは到底果たすことのできない事業でしたが、この少年の姿に感動した人々から次第に寄付が集まるようになり現在もこの働きが続いているのです。

 私は小学生の頃に、飢餓で苦しむ人々をテレビで初めて見ました。私も小遣いをため、寄付をした経験があるのです。「金銀はわたしにはない。しかし、わたしにあるものをあたえよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。」との御言葉によって、神様のことを宣べ伝えたいと牧師になる道を進んだわけです。しかし、今回、フィリピンに行って、またこのカナダの少年の話を聞いて、小学生の頃、小遣いをためることをあきらめた私は自分の欠けていた部分に気付きました。
 それは、たとえ小さな力でも、自分のできることを神様にあってすることの意味を知る大切さと、またそれを続けていく力の可能性です。

 私たちは、貧困の極みにはおかれていません。置かれていないとしたら、私たちは今日の箇所にある過ちを自分には関係のないものだと言えなくなるのではないでしょうか。犯す可能性のあるものだとして心にとめる必要があるのではないでしょうか。
 なぜなら、私たちは神様の恵みの中で救われ、神様の恵みの中で今の生活が与えられ、神様の恵みの中で生かされているのですから、私たちがこの日本に生まれたのは、神様のご計画によるものなのです。申命記15711、ルカ634,35

 神様からのチャレンジを受けていただきたいと思います。自分に何ができるかを知っていただきたいと思います。小さな働きでもいい、神様の大きな働きの一部を担うことになるのです。買い物に行っても1円足りないと、必要なものも手に入れることができません。1円が大切だと、その時ほど1円を大切にしておけばと思うことはないでしょう。たとえ小さくともその一部がなくなることで神様の働きを担っていた一部がなくなることになるのです。自分の存在の大きさを知っていただきたいと思います。

 今日の箇所で「富んでいる人たち」と言われているのは、当時の地主たちのことでした。麦畑やぶどう園などに小作人を多く抱えて収益を得ていた人たちでした。全体を通しても、また特に4節を見ても分かるように、彼らは多くの不正な利益を得ていたようです。

 本来ならば、どうするべきだったのでしょうか?
 当たり前のことですが、賃金をちゃんと払うべきでした。
 また、神様に対して10分の1の感謝を捧げる必要もあったでしょう。 そして、残りの中で許される限り貧しい者たちへの施しをするべきだったのです。

 当時、施しは美徳と考えられていましたから、皆誰でも、形だけ施しをしていました。しかし、別に心からその相手の必要に答えようとはしていなかったのです。「してやったのに文句を言うな」という意識でしていたということです。
 だから、「あいつらは俺たちのお金で生きていられるのだ」と貧富の間に差別意識ばかり育っていきました。

 今回のフィリピンでの大きな働きは、スラムで家を建てることでした。貧しい地域にお金持ちが入っていって奉仕をする働きでした。フィリピンは貧富の差の激しい国です。変な話ですが、礼拝にお金持ちとスラムの貧しい人が一緒に出席することが難しい背景があります。しかし、それを乗り越えようと活動している教会があるのです。同じ主を信じる兄弟姉妹としてお互いに歩み寄ろうと働きが進められています。5万円もあれば、小さいけれども二階建ての家が建つのです。そのお金を教会で献金を集め工面して、そしてそれだけではなく、そのお金で材料を買って、家を建て上げるために奉仕に行くのです。あちらの物価をちょっと紹介すれば、パンは1ペソ(3円)で買えます。マクドナルドのようなファーストフードは、およそ40ペソ(120円)このような外資系のものは豊かな人しか購入できません。一般的な仕事についている人の一日の給料が100ペソ(3000円)として考えて下さい。しかし、はっきり言いますが、100ペソ稼げる人はまだ幸いなのです。多くの人が一日に100ペソを稼げない環境にいます。今回プレゼントしたいと一人の姉妹が内職の仕事で作っているネックレスをくれましたが、実はそのネックレスは、一つ作って75センタボ。1ペソに満たないお金しかもらえないのです。ということは、一日に130個以上作って何とか100ペソ稼げる状況なのです。なのに、お店に行くとそのネックレスが40100ペソで売られているのです。今日の箇所に出てくる地主と小作人のようだと思いませんか?

 その現実の中でフィリピンのキリスト教会は、聖書に教えられている犠牲を伴う愛を、犠牲を払って一緒に家を建てるという相手の必要に答える働きで指し示しているのです。

 チャレンジを感じませんか?
 私たちは何を持って、神様を証ししていきましょうか?
 神様のために、どのような犠牲を払っていけますか?
 この白浜の狭い範囲に目を止めても構いません。また世界を視野に入れて考えて下さっても構いません。ただ、キリスト者として神様と人とに仕える者でありたいのです。

 自分の利益を求めるばかりに、世の富に目が眩む者となってはなりません。必ず、廃れてしまう世のものではなく、天にある約束された祝福を求めて生きましょう。

 神様は、私たちを天からの恵みで満たして下さいますから。