ヤコブの手紙講解メッセージ(841117
                「なぜ、これほどまでにしつこく」


 律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。412

 むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。415

 今日の箇所を読んで、まず私が感じたことは、なぜ、これほどまでにしつこく謙遜であることを何度も何度も教えているのかということでした。
 それほどまでに、この当時から、クリスチャンの間に裁き合いや仲たがい、それから高慢を感じさせる問題が引き起こされていたということでしょうか。
 また同時に、人間の罪深さは、この一点に非常に良く表れるということかも知れません。それだけに、当時の教会がどうであれ、現在の私たちの教会は、このヤコブのメッセージを受けて、どのような反応を示していかなければならないのかは明らかだと思います。
17節「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」とある通りです。なすべきことは分かっている。ただ高慢な思いを捨て謙遜になることなのです。

 このヤコブの手紙を学んでくる中で何度も確認してきたことですが、今日の箇所で示されていることもこの「謙遜」なのです。隣人に対する謙遜と、神様に対する謙遜とが教えられています。ヤコブはきっと教会の中に「愛」と「平和」が満ち溢れるには、クリスチャンが皆、まず神様の前に、そしてお互いに謙る必要があると気付かされていたのです。

 11節「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。」
 私たちが、お互いに悪口を言い合う状態を想像してみると、きっとお互いに怒り、お互いに自分の方が上だと思い、お互いに自分の方が正しいと感じている状態だと思います。その時、お互いに、「相手を上だと思いなさい」という御言葉を思い出しはしないのです。というよりも、相手に対してその御言葉をぶつけようとさえするのです。また、相手に変わることを望んでいても、自分は変わる気持ちがない・・・。非常に自己中心的であり独善的だと言わざるを得ない状態でしょう。ここには隣人に対する謙遜という姿はありません。

 ヤコブはこんな状態を「律法を裁く」状態だと言っているのです。つまり、御言葉の実践者ではなく、御言葉を裁いている裁き手だというのです。御言葉に従うどころか、高慢にも神様の教えを裁いているというのです。言い換えれば神様を裁いているということです。
 これは驚きです。私たちは「何も神様までも否定しているつもりはありません。ただあの兄弟が赦せないだけなのです。」と言うかもしれません。しかし、神様は自分の教えたことを蔑ろにするという事は、わたしを蔑ろにすることになるのだと言われているのです。

 隣人に対する高慢な態度が、神様への高慢な態度へと密接に関わっていくのです。
 この罪の大きさを知っていただきたいと思います。
 私たちが隣人を裁くとき、この大きな罪を犯していると知る必要があるのです。 

 12節「律法を定め、裁きを行う方は、お一人だけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。」
 謙遜を学ぶ上で、教会の中にあるたった一つの、しかし一番大切な秩序を確認しておきましょう。それは「律法を定め、裁きを行う方は、お一人だけです。」とあるように、すべてを定め、すべてを裁くことのできる方は、神様以外いないということです。もしこの秩序を破って、お互いに裁き合うことになったら、神様は私たちにこう言うでしょう。「あなたはいったい何者なのですか」「わたしを侮るのですか」と・・・。そして、高慢な私たちを裁かれるのです。
 兄弟の眼の中に針が入っていると言うが、自分の目の中に丸太が入っていることに気付かないと言われるのは、こういうことなのです。
 私たちの誇り高ぶる思いは、隣人に対してだけではなく、自分の命に関しても見られます。1314節「今日から明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金儲けをしよう」と言う人たち、あなたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。」

 私たちは根本的なところで神様を忘れて生活しているのです。

 私たちの内にある命が、神様の支配の中にあることを忘れているのです。そして、この命が、いつまでも続くような感覚を持って、自分の欲求を満たすことに使ってしまっているのです。主に任された働きよりも、自分の欲求を満たすために限られた命を使っているのです。

 別に自己実現のすべてが悪いわけではありません。

 ただ、この謙遜な思いを忘れてはいけないのです。15節「むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。
 主の御心であれば・・・。という思いが、私たちを謙遜へと導きます。また、悪に突き進んでしまうことを防ぎます。主の御心を求めて歩んでいきましょう。私たちのこの命ですら思い通りにはならないのですから・・・。
 ヤコブは、この私たちが神様を知らずに抱く人生観そのものが、人間の傲慢を表していると指摘しているのです。

 さて、私たちは、これからも主からの幻を追い求めて歩んでいこうとしているわけですが、いつも謙ることを忘れないようにしましょう。将来に望みを持つことを禁止していませんし、戒めてもいません。ただ、神様と人との間で謙って自らの歩みを正していくことが求められています。そして主の御心のままに幻を現実の恵みへと変えていただこうではありませんか。