ヤコブの手紙講解メッセージ(74110「神に近づこう」

 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。478a

 私たちが生まれつき持っている悪の性質は、本当に満足を知らないものなのだなと思います。そんな思いをつくづく感じさせることがまず指摘されています。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」と・・・。
 もう一度、自分を見つめ直してみましょう。自分は何のために生きているのか。いや、生かされているのではなかったか。自分の心は何を求めているのか。何を第一としているのか。自分がしようとしていることやその動機は主からのものなのかどうか。

 私たちは神様に創造された存在です。そして神様の愛を受けて生かされている存在です。もし、神様が愛の神様ではなく怒りの神様だったら、私たちを含めすべての人間は、とおの昔に、自分の内側にある神様に従わない心のゆえに裁かれ、一瞬のうちに滅び去っていたことでしょう。しかし、神様は私たちを愛され、従わない心を赦し癒すために、独り子イエス様を十字架にかけて生贄となさったのです。ご自身の愛をそこに表され、この愛を受けて私に従いなさい、私を信頼する心を持って私に立ち返れと言われました。それゆえ、私たちはチャンスをいただきました。私たちの内側にある従わない心を神様の前に悔い改めるチャンスをいただいたのです。

 私たちはこのチャンスをいただいているのです。

 ならば、おのずと、今の自分を見つめ直すことができるのではないでしょうか。自分は何も知らなかったけれども、もうすでに自分のためにいのちを捨てて下さった方がいて、自分はその方のいのちを代価として生かされている存在なんだということ。そのことを知らなかったり受け入れられなかった事実。いのちさえも与えられているのに、それほどの愛を受けているのに、なおも満たされず思いのままに何かを求めている自分。その欲の深さ。痛んだ心。満たされない飢えている自分。みことばにあるように、自分の楽しみだけを追いかけている自分。利己心に満ちた自分。

 自分はこんなものではなかったかと問いかけてみていただきたい。 そして自分の人生はそれでいいのかと考えていただきたい。

しかし、神様を信じて、その愛と恵みに満たされた感動を知っているクリスチャンですら、この間違いに陥ることがあるのです。それほど世は魅力的で、また私たちは肉の思いを押し殺せない弱さを持っているということでしょう。
 だからヤコブは、4節「世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのですか」と忠告しているのです。マタイ624にもあるように、世と神様と両方に仕えることは出来なのです。

 私たちの心にはどちらかしか入れないのです。

 ここに、神様の愛が示されます。(56節)もし、私たちが神様以外のものに心奪われてしまっていたら、神様はそれをねたむほどに、私たちを愛しているんだというのです。「ねたむ」と聞くと、何か悪いイメージを持ってしまうかもしれませんが、実は違います。親子の関係で子どもが一番必要としているのは自分なんだという思いは、時にはねたみを引き起こすものではないでしょうか。しかし、それだけかわいいということですし、それだけ力になりたい、またなろうとしている、目に入れても痛くないという気持ちでしょう。(別に子どもじゃなくても自分の飼っているペットに対する気持ちも同じようなねたむほどの思いを持つでしょう。)
 神様が私たちに対して持っている思いとは、それほど私たちのことを一番に考えているというものなのです。ねたみを感じてしまうほどに、手を尽くしこだわりをもって愛してくださっているのです。
 だから6節後半(読む)、へりくだって神様の愛に応えていこうと語られているのです。そこに神様からの大きな恵みが用意されていると・・・。

 私たちが普通に生きているこの世界を支えておられるのは神様です。科学が進歩した今、ある科学者は、「神様はもういない」「必要ない」と言います。遺伝子についてまでも解明されていく中で、人間の手で人間を生み出そうという動きまで出てきています。しかし、この世界を支えておられ、私たちの必要な環境を支えておられるのは神様なのです。人間はそれを高慢さゆえに潰していくだけ・・・。私たちが当たり前に感じていた自然の恵みは、本当は神様の御業によって支えられていた恵みなのです。世界を「自然」と読んだこの言葉に、神様から離れてしまった人間の大きな思い違いがるのです。このすべてを踏まえて、神様の愛の大きさを感じてもらいたいのです。
 世の中が、人間の思い違いの中で、神様から離れて栄えていることを知ってもらいたいのです。

 ヤコブは、核心に迫ります。 
 
7節「だから神に服従し、悪魔に反抗しなさい。」
 世の支配者は、神様から離れた存在、悪魔(サタン)です。
 イエス様が荒野でサタンの誘惑に遭われたとき、サタンはこの世の中のすべてを与えると誘惑しました。サタンはこの世の中のすべてを動かすことも可能な力を持っているのです。
 しかし、イエス様は言われました。この世のすべてを手に入れても、命を失ったら何の価値があろうか」と・・・。
 言うなれば、サタンに従えば、この世の栄華を極めることもできるかもしれない。しかし、死を迎えた時、それらはすべて失われ、そこには裁きが待っているというのです。その時サタンは、何もしてくれない、してくれないどころか裁かれる私たちを見てあざ笑っているのです。にやっとね。

 だから私たちはサタンに反抗しなければなりません。自分たちの態度をはっきりと示す必要があるのです。
 なぜその必要があるのか?それは、私たちが少しでも油断するとサタンは必ずつけ込んでくるからです。私たちの弱みに上手に働きかけてくるのです。自分の弱さを肯定してはいけません。そこにサタンが働いて、災いの種を蒔こうとするからです。また自分の足りなさに開き直ってもいけません。むしろへりくだって謙遜の中で、その足りなさを認めて、悪く働かないように注意すべきです。サタンが必ず働いて本当に見なければいけない自分の足らなさを見させないようにしてくるでしょう。そして、足らなさを永遠に引きずっていくことになるのです。

 だから皆さん8節「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいて下さいます。」
 どうやって近づくのか?
 それは、へりくだることから始まります。
 放蕩息子が父親のところに帰るシーンを思い出してください。財産の半分をもらって町に出た後、そのすべてを使い果たしてどうしようもなくなった時、家を思い出す。今でも、こんな自分でも受け入れてもらえるだろうかと悩みつつ、息子という立場でなくてもいい、使用人の立場ででもいいから赦して受け入れてほしいと願ったあの姿こそ、私たちが神様の前にへりくだるということを教えていると思いませんか。その放蕩息子が帰る決断をした姿、そして家路についた姿は、それはまさしく神に近づこうとする私たちの姿を表していると思いませんか。また遠くの方に息子が帰って来る姿を見つけて自分の方からも走りよって抱き寄せよく帰ってきたと迎え入れた父親の姿は、まさしく神に近づこうとした私たちを、本当に待ち構えて抱き寄せて喜んで下さる神様の姿を表していると思いませんか。

 神に近づきなさい。神は近づいて下さいます。
 この世の思いを捨てて、この神様に従いませんか。

 何かを為すために使う手を清め、心を清めて、今まで楽しみ(笑い)だったものを吟味しましょう。神様の思いではないものを悲しみとしましょう。また、今まで喜びだったものを吟味しましょう。神様の思いではないものを愁いとしましょう。必ず神様が私たちを導き、私たちを用い、私たちを大いに高めて下さるでしょう。

 主を表す者となりたいと思います。