ヤコブの手紙講解メッセージ(5
         
3118「讃美と呪いとの狭間で」

 わたしたちは舌で、父である主を讃美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から讃美と呪いが出てくるのです。3910

 耳の痛い御言葉ではないでしょうか?
 新改訳だと「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人を呪います。」と同じ舌だと念をおされています。確かに私たちは注意していなければ、心していなければ、神様を讃美している同じ舌で人をののしり、人を裁き、人を呪ってしまうのです。

 なぜでしょうか?
 聖書は2節「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」と言葉で過ちを犯すことから「言葉」について警告しています。
 そして35節「馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さい器官ですが、大言壮語するのです。」と、その言葉を発する「舌」について警告しています。
 6節を見れば、体の器官の一つでしかない小さい舌が、全身を汚し、人生を焼き尽くし、地獄の炎によって燃やされてしまうと、わたしたちは舌一つで罪のどん底まで落とされることが記されているのです。そして8節「舌を制御できる人は一人もいません。」と絶望とも取れる結論が述べられているのです。
 なぜ、神様を讃美している同じ舌で、人を呪ってしまうのか?それは、わたしたちが誰一人、舌を制御できないからなのです。

ならば、なぜ舌を制御できないのですか?
 6節『舌は火です。舌は「不義の世界」です。』や8節「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」とあるように、聖書は舌に焦点を当てて、舌に問題があるかのように記していますが、同時に2節「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」とか、8節「しかし、舌を完全に制御できる人はいません。」とあるように、治めきれていない舌を完全に制する者がいないことも問題だと言っているのです。
 確かに舌を制することは難しい、しかし、舌を制することをしてほしいと神様は願っておられるのではないでしょうか。10節後半「同じ口から讃美と呪いが出てくるのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」とあるとおりです。

ある時、イエス様は言われました。目に見える兄弟を愛せない者に、目に見えない神様を愛することはできないと・・・。単純につなげることはできないかもしれませんが、目に見える兄弟を呪ってしまうその舌は、簡単に主を呪うことだってできるのではないでしょうか?
 とは言うものの、一つの疑問が出てきます。私たちのこのからだは、神様の創造の御業だったはず・・・。なのに、舌だけが「疲れを知らない悪」「不義の世界」「火」と変わってしまったのでしょうか?本当はこの舌も、神様を賛美するためだけに使われていたはずなのです。何かが変わってしまった。舌が悪に満ちたものになる原因として、根本的な何かが変わってしまったのではないでしょうか。

 そこで、このような舌を制するためにはどこに問題があるのか考えてみたいと思います。
 詩篇にこんな告白があります。「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。」
 私たちの内側を探られる主が、言葉が私たちの舌にのぼる前に、その私たちの発しようとしている言葉が何であるかを知っているというのです。ということは、私たちは言葉を発する時、まず内側で言葉にしているということではないでしょうか。この心に思うことが重要な意味を持っているということです。この心を何が支配しているかで、舌にのぼる言葉が決まるのではないでしょうか。

その上で、1112節「泉の同じ穴から、甘い水と苦い水が湧き出るでしょうか。わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。」
 私たちは舌に直接繋がる心を守るために、その心を開いて救い主であるイエス様を迎え入れましょう。心を神様に明け渡していただきたいのです。
 悪の働く余地を残さないように神様の愛を満たしていただきましょう。
 心が変われば、私たちは変わります。発する言葉も変わります。神様が変えて下さいます。
 なぜならこう祈れるようになるからです。「私の口のことばと私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。」詩篇1914
 舌を制するには、心を制する必要があるということです。そして心を制するのは神様の存在しかないのです。

さて、私たちの心を見つめてみましょう。
 
私たちの心に「ねたみ」や「利己心」はありませんか?
 もしあるならば、15節にあるように、そのねたみや利己心は地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。それらは必ず混乱やあらゆる悪い行いを生み出してしまいます。16節「ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。」とある通りです。
 これまでの自分の経験を振り返ってみても、ねたみや利己心から出た言葉や態度は、いつも苦い思いを生み出していたのではないでしょうか?

私たちは世に生まれ世に育ちました。だから世のものでした。しかし、キリストに出会って、世の価値観を捨て去りました。信仰に生きる者となったのです。しかし、それでも、隙を見せると、悪(サタン)は私たちの心に上手に入ってくるのです。損得勘定がでてきます。ねたみが起こされます。自分中心の利己心が出てくるのです。そんな時の私たちは様々な理由をくっつけて自分を正当化します。人間は善悪の知識の木の実を食べた現実を思い出させる一例です。私たちはほんとうに賢いのです。しかし、神様から離れて賢いのです。だからヤコブは、上からの知恵を求めなさいと言ったのです。
 17節「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。」そして18節「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるものです。」

 ヤコブは上からの知恵を「純真」「温和」「優しさ」「従順」なものだと表現しました。また憐れみと良い実に満ちたもので、偏見はなく、偽善的でもない・・・。
 自分が思わされている思いが、神様からのものであるかどうかを確かめる時のバロメーターとすることができないだろうか?神様に対して純真な思いなのかどうか?自分の心に怒りや争いではなく「温和」が満ちているかどうか?また「優しさ」が満ちているかどうか?また神様に対する「従順」な思いが崩れていないかどうか?「ねたみ」ではないか?「利己心」からではないか?少しも混じっていないかどうか?「偏見」や「偽善」を排除できているかどうか?

 私たちは、自分の心をこれらのバロメーターで見張る必要があるのです。ことばが舌にのぼる前に、心にどのような思いがあるかで、舌を制することができるかどうかも決まるのではないでしょうか。
 18節「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」

 最後に「平和」。私たちがお互いの間に「平和」を打ち立てていくことが出来ないとしたら、それは「義の実」を蒔くこともできていないということになるでしょう。
 また、「平和」のうちに、物事を行なえないとしたら、それも義の実を蒔くことにはならないということでしょう。

 舌を制することができなかった。心を悪にかき乱されてしまった。
 つまり神様の御心から離れてしまうということです。
 私たちの生き方で、上からの知恵に生きていることを示していきましょう。自らの内側を、今日の御言葉を持って照らしましょう。

 さて、ここで1節を見てください。(読む)
 今日のこのメッセージは第一に牧師に対して語られているものだということです。
 そして役員の皆さん。
 そして最後に教会に属しておられるすべてのクリスチャンに同じように語られているということです。自らが任されている範囲を覚えつつ、自らを磨くことができたらと思います。