ヤコブの手紙講解メッセージ(421426「行いは信仰の魂」

 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。ヤコブ226

 私たちが、世の中に対して地の塩、世の光となり、キリストを指し示すためには、生活の中で表されている行いに注意しなければならないと、今日の箇所は教えています。
 また、それだけではありません。もっと根本的に、私たちの信仰を神様に認めていただくためにも、生活の中で表されていく行いが大切なんだと教えられているのです。
 アブラハムは、神様の言われるとおり、最愛の息子を捧げました。
 ラハブも、敵対するイスラエルからのスパイたちを、かくまい逃がしました。
 これらの行いが、信仰に立つ行いが認められて、信仰が認められたと教えているのです。
 私たちは、誤解していないでしょうか?
 信仰と行いは何も対立するものではないのです。
 しかし、私たちは、イエス様の十字架を信じるだけで救われるという恵みを強調するあまり、救いに行いはいらないと、救われた後も行いをないがしろにしてしまっている人が多いのではないでしょうか?

 当時の教会にも同じ問題が起こっていました。律法を重んじる人々は、信仰だけで救われるのはおかしいと間違った主張をしていましたから、問題はなお複雑で、信仰によって救われるという教えを否定してしまう結果を招きました。そのため信仰と行いの対立は深まるばかりだったのです。 ヤコブは具体的に問題の核心に迫っています。
 14節「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が彼を救うことができるでしょうか。」
 信仰を持っていても、その信仰を働かせることができなかったらどうでしょうか?
 信仰を持っていても、その信仰のゆえに生活が変わらなかったらどうでしょうか?
 何の意味もありません。何の助けにもなりません。
 自分に対しても、隣人に対しても、行いがなければ、その信仰は無意味だと、死んだも同然だとヤコブは言っているのです。
 15節から記されているように、誰かが食べ物に事欠いているのを見た時、皆さんならどうしますか?どう信仰を働かせますか?その人の必要をいかにして満たしてあげますか?
 祈りつつ、自分の持っているものを分けることができますか?
 自分も何も持っていないとしたらどうしますか?
 共にいることを選び、神様を見上げて、神様により頼むことを、分かち合えますか?
 それでこそ、力ある信仰ではないでしょうか。
 17節「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」 しっかり覚えていただきたい。私たちに与えられた信仰は、イエス様が死に至るまでも神様に従い、私たちの身代わりとして裁かれる道を行いきって下さった恵みとして与えられたものではなかったか。
 だから、私たちは信仰を持つ者として、キリストの愛を知っている者として、信仰持って、隣人を愛し助けなければんらないのです。
 もし私たちが困っている人を見捨ててしまったら、その見捨てられた人はどう思いますか?周りで見ている人々はどう感じますか?きっと、私たちの信仰を良くは見てくれないでしょう。いくら愛を語り、愛を告白しても、やっていることは違うじゃないかと受け入れてもらえないと思うのです。それに、神様はそんな私たちを悲しまれるのではないですか?

 私たちは行いを通して、信仰を表していくのです。見せていくのです。証ししていくのです。

1819節『しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」という人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。』
 私たちは神様を唯一の神だと信じていますが、確かに悪霊どももそう信じているのです。この厳しい言葉を持ってヤコブは、私たちと悪霊どもとの行いの違いにこそ、その信仰が正しいかどうかが表されることを教えているのではないでしょうか。
 日頃の行いを見てその人の信仰が判る。だから行いの伴わない信仰は死んだものなのです。役に立たないのです。
 私たちにとって信仰はいのちにもかえられないものです。そのいのちである信仰にとって、行いはなくてはならない魂なのです。私たちは信仰を持つ者として、いのちをかけて信仰の魂である行いに生きる必要があるのです。

 「信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成された。」22節でアブラハムの例から、ヤコブはこう結論付けています。信仰と行いは切り離すことのできないものなのだということを理解していただきたいのです。何かを行なおうとするとき、必ず信仰が関わります。働きます。試されます。また信仰を持った時、信じたように行うことで、その信仰は完成するのです。そういう意味において、信仰と行いが切っても切り離せない両輪なんだという意味において24節「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」

私たちはイエス様の犠牲と恵みによって救われました。信じるだけで救いは私たちに届けられます。24節の言葉はこれを否定しているわけではありません。信じると同時に、私たちは今までそんなことしなかったけれども、救いの喜びから神様をほめたたえることを始めるでしょう。礼拝を大切にするようになるでしょう。神様に従うことを始めるでしょう。神様に反するものから遠ざかるでしょう。こうして行いは信仰と共に表されていくはずなのです。その行いを神様は喜ばれ、認められ、義とされる。確かな神様との絆が結ばれるのです。

はっきりさせておきましょう。これはまぎれもなく「信仰あってこそ」なのです。Tコリント13章の言葉にもあるように、愛がなければ何の意味もないと言われていることと同じです。何か良い行いをしても信仰あってこそ神様に捧げることができるのではないでしょうか。そして同じように、信仰を持っていると言いながら、行いがなければ、その信仰も何の意味もない。

さて、私たちは初穂となることを目指したいのです。イエス様をもっと証ししたいのです。生活を通して、神様のすばらしさを表したいのです。私たちの信仰生活を建て上げていきましょう。