ヤコブの手紙講解メッセージ(32113「愛の原則」

 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と断定されます。289

 「人を分け隔てしてはならない」この教えはあまりにも当然であって、当たり前と思われる教えですが、これほど難しく、またこれほど他者から認めてもらいにくい教えはないと思います。
 本文にも例話が記されていますが、金の指輪をはめた立派な身なりの人と、汚らわしい服装の貧しい人と、両者に対する態度が違っていてはいけないという当然のことだと思う内容です。だから、確かに分かりやすい例話だと思います。それに納得しやすく、ちゃんとできているかどうか認めやすい例話ではないでしょうか。しかし、教えとしては受け入れやすいものですが、実際の実践においては問題があります。なにかというと、それは、自分がこの教えを実行したとしても、その立派な身なりの人や貧しい人と言われているこれらの当人がどう感じるかについてここに記されていないということです。またそれを周りで見ている人がどう感じるかについても記されていないのです。この記されていない部分にこそ、一番の難しさがあると思いませんか?
 自分ではそんなつもりがなくても、「そう見える」「そう感じる」と言われてしまえばどうしようもないわけです。「そんなつもりはないんだけど・・・」という言葉も言い訳にしかなりません。

 今日の箇所に出てくる例話と同じことをしたとすれば、それは確かに4節で言われているように「あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。」ということになります。ですが、「そう見える、感じる」ということについては、ちょっとどうしようもないことだと思ってしまうのではないでしょうか。「どうすればいいのよ」となってしまうでしょ。
 しかし、「そう見える」「そう感じる」ということにも、私たちクリスチャン一人一人は、キリストの愛を伝える者として気をつけなければならないのです。なぜなら、私たちは地の塩、世の光であり、パウロが告白しているように「見せ物」となってキリストを証しする存在だからです。見られることや、感じさせることにも注意しなければならない難しさを担っているのです。

 ならばどうするかが問題です。具体的な方法は色々あるでしょうが、根本的な問題を確認していきましょう。

 ヤコブがこんなことを書かなければならなかったのは、実は当時、教会の内部に貧富に対する差別意識が存在していたからです。また民族意識による差別も行なわれていました。新旧合わさる時、仲間の範囲が広がり始める時、お互いの多種多様な違いから相手を裁き始めることで差別は起きやすいのです。
 教会の歴史を見ても同じ間違いを犯してきました。金の席、銀の席、銅の席と礼拝堂の一列目から順に名前をつけて献金額で席順が決まっていた時代もありました。また白人と黒人の差別から、それぞれ教会が分裂した例もたくさんあります。

 なぜ、このようなことが起こるのでしょうか?身近なところから考えてみましょう。

私たちの友達関係において、仲のいい友達もいれば、仲が悪いわけではないけれど、仲が特別良いわけでもない友達もいます。もっと言えば、仲が悪い人たちもいるでしょう。このように私たちは誰でも相手によって関係が変わるのです。認めるしかありません。
「相性や性格、感覚や価値観が合うかどうか」「よくしてくれるかどうか」「誠実かどうか」「信頼できるかどうか」このようなポイントが関係の変化を生んでいる大きな要素となっていると思うのです。きっと、私たちは兄弟姉妹として「愛する」ということを「好き嫌い」の感覚の延長線上にあると勘違いしているのです。愛すると好き嫌いは別問題です。一つの側面だけ簡単に説明すれば、好き嫌いは、犠牲を伴うか伴わないかで好きにもなれば嫌いにもなれるのです。しかし、愛するは違います。初めから犠牲を覚悟して、犠牲を払っても変わらないものなのです。
 「相性や性格、感覚や価値観が合うかどうか」「よくしてくれるかどうか」「誠実かどうか」「信頼できるかどうか」で愛するかどうかは決まりません。キリストを知っているならそのことが分かるでしょう。キリストはご自身を罵り傷つける者にさえ愛する気持ちを持っておられました。十字架はその際たるものではありませんか。私たちはこのキリスト愛をなかなか実践できないのです。
 だから私たちは、人間同士の集まりである教会においても、お互いの好みで決まる関係を乗り越えられないのです。前向きに話せば、乗り越えるのに時間と愛する努力が必要なのです。

また、あえて語らなければなりません。当初教会は、共同生活を行なっていました。ヤコブがいたエルサレムの教会はその原型、雛形でした。というのも、使徒言行録に記されているペンテコステの時、救われた者たちが財産を共有し共同生活を始めたことは皆さんも知っていると思います。あれが、エルサレム教会の始まりだったのです。そのような中で人間の弱さでしょう、経済力が注目を集めました。みんなが生活していくお金が必要だったからです。ここで、問題が起こってきました。誰よりもたくさん捧げた者の発言力が強くなっていったのです。またそのため、少ししか捧げられない者の存在が軽んじられる結果を生んでいきました。そのつもりはなくても結果的にです。
 しかし、はっきりさせておきますが、当時共同生活が始まり、お互いの財産を持ち寄ったのはあくまで自発的なものだったのです。誰かの命令でも義務感からでもありませんでした。その証拠に、アナニアとサッピラ(サフィラ)を覚えているでしょうか?土地を売ったがその代金をごまかし捧げようとして裁かれた夫婦です。その時、ペテロが言った言葉は「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。」でした。アナニアとサッピラ(サフィラ)は、みんなと同じようにしなければと、ある意味においてしたくないことをしたのです。だから不正を働くことになってしまいました。本当は自発的なものだからしなくても良かったのです。しかし、ここが集団心理の怖いところです。落とし穴があります。人の目が気になり、自分と人とが違うことをするのも気がひけ、なるべく、人と同じことをしていたいと思うのです。本当は任されていることなのに、しなければならない義務のようになってしまう。心の伴わない・・・、時には不満など悪意を抱きながらの形だけ合わせておくような行いになってしまうのです。

今風に考えるならば、運営費がかかるのだからと教会を何か事業所のようなものと勘違いしてはいけません。牧師を養わなければならないと義務感を持ってはいけません。また牧師の側がそんな義務感を与えてもいけません。もしこのような間違いを犯してしまえば、確かに献金額が問題になります。「力=お金」になってしまいます。教会としては本末転倒ですよね。聖書はなんと教えていますか?「権力によらず、能力によらず、ただわたしの霊によって」と神様の御心が記されているではありませんか。教会のすべてのことは、ただ神の霊によるものでありたいと思います。神様の方法で教会はまことの教会として建て上げられていくのです。

その神様の方法について、ヤコブは続けてふれています。
 5節「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」
 確かにキリストの弟子たちを見てみると、当時重んじられていた指導者階級の人は一人もいませんでした。律法学者やパリサイ人などからは、ガリラヤの田舎者、ローマの犬となった汚れた罪人など、そのように呼ばれてしまう人たちでした。
 またキリストは多くの貧しい者たちのために働きました。体のどこかに障害を持っている人や、らい病をわずらっている人などなど、彼らは皆、社会から見捨てられていた人たちでした。
 それだけではありません。この世界にお生まれになったことが一番初めに伝えられたのは、ユダヤを治める王や貴族でも、ベツレヘムの住民でも、宿屋の主人でもなく、当時人口調査の数にも入れてもらえなかった羊飼いたちだったのです。「今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになりました」との天使の言葉を思い出します。
 神様は、いつも、失われたもの、捨てられたもの、数に入れてもらえないものを忘れることはなかった。覚えて恵みを満たし、用いてご自身の御業を成し遂げられてきたのです。
 もし、私たちがどうしても人を分け隔てしてしまうなら、この神様の御業を思い出さねばなりません。「あの人よりも自分の方ができる」「あの人とこの人では、この人の方が使える」などと感じているなら、自分の高慢さに気付くべきです。そしてへりくだるべきです。私たちの高慢が、人を分け隔てする私たちのその心が、神様の御業を妨げてしまうからです。

ヤコブは続けて語ります。8節『もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と断定されます。』

なぜ、愛に生きようとしても、人を分け隔てしてしまうのでしょうか? 神様のように、小さき者をも変わらず愛することができないのでしょうか?
 
 パウロはある時、争いあう兄弟姉妹に対して「そもそも互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。」と言いました。
 キリストの歩まれた道を思い出し、ただただイエス様が人を分け隔てなく愛されたことを思わずにはいられません。あの裏切り者のユダをも分け隔てなさいませんでした。むしろ気付いていながら最終的には裏切られるままにさせておいたのです。なぜ、その前に止めてやらなかったのだと言う人もいるでしょう。それが愛じゃないのかと・・・。しかし、現にイエス様は最後の晩餐の時にそのチャンスを作っているのです。「この中に裏切る者がいる」とはっきりおっしゃって、悔い改める機会を作っているのです。・・・しかし、裏切ったユダは自分で命を絶ってしまいます。
 裏切ったのはユダだけではありませんでした。すべての使徒がイエス様の本から逃げてしまいました。その中でもペテロはイエス様に「お前はわたしを裏切る」とはっきり忠告されていました。そして本当にその通り裏切ってしまったのです。しかし、イエス様の愛は変わりませんでした。裏切ったペテロをそれでも愛されたのです。きっとユダに対しても変わらなかったでしょう。悔い改めを期待して待っていたと思います。ここに愛を感じるのではないですか?人を分け隔てなさらない愛を見るのではないですか?犠牲を伴った一方的な愛を感じるのではないでしょうか?

愛とは、一方的なものなのです。求めるものではなく、与えるものなのです。愛し合う関係とは、お互いに一方的に愛するところから始まってほしいと思います。ギブアンドテイクではないのです。

しかし、私たちのうちに、この愛が完全に満ち満ちているわけではありません。誰もが、自分の愛のなさを思うでしょう。聖書もそのこと指摘しています。
 ヨハネの手紙の中で、「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛して下さったからです。」と神様の愛を受けて初めて本当の愛を知っていったことが記されています。また別の箇所では「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。」と愛が完全なものとなる道も記されているのです。

神様に愛されて、初めて愛を知った。その愛の神様のうちに留まることで、私たちのうちに愛が完全なものとなる。犠牲をとなう愛は、本当の愛を知らない私たちにとって、神様の犠牲を知って初めて持つことができる愛なんだと言うことなのです。
 だから、神様は人を分け隔てなさらず、人に捨てられた人たちをまず第一に救われました。人間が作り出した世の中の基準とはまったく違う基準で、すべての人と関わって下さいました。そこに愛が示されたのです。

私たちは、これらの神様の方法を知って、今後どう歩んでいきますか?愛する道が示されている今、愛ですべてを乗り越えていきたいと思いませんか?神様から完全な愛をいただいて、その愛で愛されていることをもっと味わって、愛を増し加えていただこうではありませんか。そこに分け隔てのない仲間を建て上げていく道があるのではないでしょうか。